蜜のように甘い言葉(下)  エゼキエル3章1-11節



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 さて、巻物を食べよと言われて彼はそれを食べました。彼は単にそれをむしゃむしゃと食べたのでなく、命の糧、魂の糧としていただいたのでしょう。それを食べて語れというのですから、神の言葉である聖書を霊の糧として食したのです。

 私たちも聖書をそのような糧としていただいているでしょうか。どこそこのスパゲッティが美味しい、てんぷらなら新宿のどこそこ、ピザなら池袋の何というお店。そんな肉の糧の話ばかりしていませんか。もっと魂の糧についてお話していただきたいです。餃子の安くて美味しい所なら内緒で教えてくださってもかまいませんが…。私たちはどうも肉の食べ物に弱いですネ。

 冗談はそこまでにして、聖書を魂の糧として毎日頂いているでしょうか。ぜひ、今日一日を生かすみ言葉をいただくようにしましょう。

 今日はささやかな証をいたします。前の教会にいた時、月曜日から金曜日まで毎朝6時半から7時まで早天の集いを行なって、創世記から黙示録まで聖書全巻説教というのをいたしました。毎日2章ずつ読んで10分ほどメッセージを話し、二手に分かれて祈って終わるという会です。全巻を説教するのに2年半掛かりました。暫く時を置いてもう一度いたしました。全部で5年余かかりました。

 私は早起きが苦手です。というのは血圧の最高が時に84になります。しかし自分への挑戦をしたいと思って致しました。その時こう考えました。もし私がサラリーマンだったら、実際若い頃サラリーマンをしたことがあるわけですが、少し遠い場所へ転勤を命じられたらどうするだろうか。これまで7時過ぎに起きればよかったのに5時半に起きなければならなくなります。その場合会社を辞めるだろうか。きっと私はきついけれど5時半に起きて行くだろうと思いました。私はサラリーマンを続けていればそんなことがあったかもしれません。ですから転勤になったつもりで早起きをしようと決意したのです。

 それを始めたのは西暦2000年の数年前でした。新しいミレニアムをどう迎えるのかということが話題になり始めていました。それで私は、聖書を全巻説教することによって新しいミレニアムを始めようとしたのです。だって2000年というのはイエスの生誕から数えて2000年ということなら、やっぱりイエスから、聖書から新しいミレニアムを始めるのが最もふさわしいことでないかと思います。誰もそんな突飛なことをしなくても、私は何者かに促されるようにしてそこへと向かいました。

 愚かさに徹しようとしたのです。というのは毎日メッセージを話すには数時間準備しなければなりません。その教会は日曜日の夜の礼拝もしていましたので、礼拝が終わって参加者とお茶を頂いたりしていると9時過ぎになります。それから翌朝の準備ですから寝るのが夜中になります。無論讃美歌も選んでおかねばなりません。冬場は部屋のストーブのタイマーをつけて置かなければなりませんし、時々灯油を補給しておかなければなりませんでした。それで、寝ても覚めても聖書、聖書の2年半。それを2回しました。

 愚かさに徹しようというのには分けがあって、私自身がそうでしたが、牧師というのは気の利いたことを言おうとするのです。賢そうな言葉を語ったりします。でも多くは自分の言葉でなく人の考えや人の言葉の盗用です。二番煎じに過ぎない。社会的な発言でも気の利いたことを言うのですが、二番煎じが多い。しかし聖書から自分が与えられたメッセージを自分の実存をくぐった言葉として語っていこう。そういう意味において愚かさに徹しようとしたのです。

 またこういうことも考えました。私は一坪の土地すらこの世に所有していません。しかし実は自由になるちっちゃな庭を持っているのです。それは聖書という広大な庭です。その庭には林があり、水辺があり、広い平地が広がり、また砂漠のように乾燥した所もありますが泉が湧き出で辺りを豊かに潤している場所もあります。その広大な聖書という森には、季節によって咲く花が東の隅、また西の丘にあったりしています。この庭のどこにどのような花が咲いているのか、それを知って必要な時にそれを取りに入って家に生ける。

 茶人は茶室に花を生けます。本来、茶人は足で生けるのだそうです。足で生けるとは、その日の来客のことを考えて最もふさわしい花を野山に探しに行って生けるからです。私もそのような花を私の持っている庭から摘んで来ようと思ったのです。

 5年少しで2度全巻説教をするうちに、ある方は、近くに住む二人のお孫さんが優秀な子でしたが登校拒否をしていたのですが、祈りが聞かれてそれを脱しました。当時子どもが荒れて子どもを殺す事件もあり、そうならぬとも限らぬ場面も抱えながらそれを脱して行かれました。私自身、聖書を読み続けなければ担うことができない重荷を比較的軽く負うことができました。

 初めの全巻説教を終わってある方がこう書かれました。「さて初日、目覚まし時計2個を準備し6時起床に努めた。…旧約は読みづらいのを承知していたがそれが違っていた。牧師が読み解説してくれると、同じことの繰り返しの箇所が生きてくるのである。『もっと解説を』と思うほど意味の深さを感じた。…」また別の婦人は、「6時15分。冬は真っ暗です。山の峰々の端を茜色に染めてだんだん明るくなる春の夜明けは、天地創造を見るようです。竹箒を逆さにしたようなポプラの大木がうす緑色に色づき、やがて大きな葉っぱでこんもり覆われるのも2回見ました。…聖書の話は何日も心に残る時もあるが、帰るまでに忘れてしまうこともありました。全体を通して神様の愛ってなんてすごいのだろう。…今改めて愛の深さ広さが染み通って来ています。創世記より通読した満足感。どんな宝物を手に入れたより嬉しいです。」

 聖書はこのような豊かな味があり、実際的に私たちを力強く励ますものです。

 エゼキエルのように聖書を胃袋に入れ、腹を満たし、魂の糧として行きましょう。そうすれば、その時、私たちの苦労や辛さや悲しみも、キリストによって転じて蜜のように甘いものとされて行くことでしょう。

  2007年11月25日
                                板橋大山教会   上垣 勝

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  (今日の写真は、ヴェズレーの中世の街並みとロマネスクの聖マグダラ教会。)