蜜のように甘い言葉(上) エゼキエル3章1-11節
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先ほどの聖書に「反逆の民」とありましたし、2章には「反逆の家」という言葉があります。イスラエルの民は頑なで神の言葉を聞き入れようとせず、エレミヤやイザヤなど多くの預言者が送られますが、とても頑固なためにいっこうに悔い改めず、遂にBC586年に新バビロニヤ帝国によって滅亡させられ、捕囚の民となってチグリス・ユーフラテス川の下流域に強制連行されました。
エゼキエルはその捕囚民の一員でした。だが神から預言者として召されて、この反逆の民に神の言葉を語らなければならないと命じられたのです。それは、たとえ彼らが聞き入れようと拒もうと、「アザミと茨に押しつけられ、蠍の上に座らされても、恐れてはならない」という厳命です。
しかしその前に、「私の与えるものを食べよ」(2章8節)と言われて「神の手の中にある巻物を差し出され」(9節)ます。見ると、その巻物は、「表にも裏にも…哀歌と呻きと嘆きの言葉」(10節)で埋め尽くされていました。更に3章に入ると、再び「この巻物を食べ、行ってイスラエルの家に語れ」(3章1節)、「胃袋に入れ、腹を満たせ」(3節)と言われます。ところが、「それを食べると、…蜜のように口に甘かった」(3節)というのです。
巻物とは、イスラエルの歴史を記した巻物でしょう。滅亡に至る歴史です。そこには悲しみと呻きと嘆きが満ち溢れ、表にも裏にも、すなわち表の歴史にも裏の歴史にも苦渋が満ち溢れているのです。だが、それを食べると、それらの事柄も神のみ手によって甘きものに変わったのです。苦き経験、苦き言葉もことごとく蜜のように甘きものになったというわけです。
旧約聖書は苦き歴史、人類の悲哀の歴史を物語ります。罪の歴史です。だがその民にイエス・キリストが遣わされます。マタイの冒頭のイエス・キリストの系図はまさに旧約の時代の罪の歴史を連綿とたどっています。しかし、その罪の歴史にインマヌエル「神われらと共にいます」という方、すなわちキリストが遣わされ、新しい歴史、新約が始まって行きます。
フランス中部に、中世ロマネスク時代のたたずまいをそのまま残すヴェズレーという世界遺産の町があります。家々のたたずまいも石畳の有様も中世にタイムスリップしたと勘違いをしてしまうといううたい文句に乗せられて訪ねました。パリから新幹線で一時間、駅からバスで一時間半、それからタクシーで20分ほど。バスも来ていない陸の孤島の、フランスの美しい村の一つでした。
インフォメーション・センターに立ち寄ってスタッフの女性と話しながら見あげると、面白いポスターが壁に掛かっていました。これはどういう彫刻ですかと尋ねると、「左上の人が麦の袋を肩に担いで小さな製粉機に小麦を入れています。右下の人は袋を受けて製粉機の下から出て来る粉を受けているのです。これは1000年前のこの辺の日常の風景です。でもこれはもう一つの事を語っています。上にあるのは旧約聖書で、キリストという製粉機を通って新約聖書が出て来たといっているのです」と説明してくれました。私はその素晴らしい解釈に思わず歓声をあげて、「あなたって、なんて知的な素晴らしい方でしょう」とほめました。すると「いいえ、これは私の解釈じゃあありませんの」と、さらに知的な笑みを浮かべました。
旧約聖書にキリストが媒介して新約聖書が生まれたというのですが、これは、律法はキリストの十字架、キリストの贖罪を通して福音に変わると解釈してもいいでしょう。また、裁きはキリストを介することによって愛に変えられると言うこともでき、どんな罪の歴史もキリストが介在してくださる時には甘き福音に変えられることを言い表していると言うこともできるでしょう。
そして、私たちのもっている苦きもの、辛きものもキリストによって甘きもの、蜜のように甘きものに作り直されるということでもあるでしょう。
ルターは、私たちの罪はキリストに、キリストの恵みは私たちに。罪と恵みとの喜ばしき交換と語りました。キリストは十字架に磔にされて裁かれ、私たちは裁きを解かれて救われ解放されたのです。
エゼキエルの不思議な経験は、キリストの恵みの予兆。キリストの福音の喜ばしき先触れを示しています。無論エゼキエル自身はやがてそんなことが歴史に起るとは思っても見なかったでしょうが。
先週、星野富弘さんが裏山の白い木の十字架に出会ったことに触れましたが、星野さんは花を描いてそこに詩を書いておられますが、それは多くの人の心に届くユニークな詩です。絵手紙がその後盛んになりましたが、なかなか星野さんのような詩は現われません。私は、星野さんの詩のユニークさは、キリストが介在して、悲しみが喜びに変えられた所のユニークさだと思います。たとえばよく知られている
「動ける人が
動かないでいるのには
忍耐が必要だ
私のように 動けないものが
動けないでいるのに
忍耐など必要だろうか
そう気づいた時
私の体をギリギリに縛りつけていた
忍耐という棘のはえた縄が
“フッ”と解けたような 気がした。」
という詩も、そう気づくのはやはりキリストに導かれて気づき、そんなところにも人生の喜びがあったことに気づき、祝福さえも存在していたように気づいたように思われます。また、
「わたしは傷を持っている。
でも その傷のところから
あなたのやさしさがしみてくる」
という詩を見ても、キリストが転轍機になって、悩み、悩み、悩み、苦しみ、苦しみ、苦しみ、傷、傷、傷、それが用いられてそこから恵みが入って来て満たされるのです。「私の恵みはあなたに対して十分である」「私の恵みは弱い所に完全に現われる」ということが起っているんです。傷が、その人らしい個性になって行ったのです。 (つづく)
2007年11月25日
板橋大山教会 上垣 勝
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(今日の写真は、聖マグダラ教会の柱のレリーフとヴェズレーの町)