不安でなく喜びの生活   ルカ9章24節


                                 (1)
 神がみ子を世に遣わされたのは、「世を裁くためでなく、み子によって世が救われるためである」とヨハネ福音書は語ります。イエスが来られたのは、世が救われるためであり、全ての人間が例外なくその命を十分に生きることができるようになるためでした。

 徴税人、罪人、遊女、また病人や障害を持つ人たちは、当時宗教的に社会的に一般の人から差別されていましたが、イエスはその「失われた人たち」を救い、色々な恐れに取り付かれている人を恐れから解き放たれました。

 このようにして、イエスは人生を阻害するものから人々を解放していかれました。

 イザヤ書35章は、イエスの到来を預言して、「荒れ野よ、荒れ地よ、喜び踊れ。砂漠よ喜び、花を咲かせよ。野ばらの花を一面に咲かせよ」と歌っています。

 ここには、砂漠や荒れ野のような環境に置かれている人はいないでしょうが、たとえそういうところに置かれている人であっても、その人生が十全に花開き、実を結ぶようになるために来られました。

                                 (2)
 そのためにイエスは、私たちに忠告をお与えになりました。そのアドバイスは私たちの命を愛し、尊ぶゆえになされたものです。今日の、「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、私のために命を失う者は、それを救うのである」という言葉もその一つです。マルコ福音書は、「私のため」、「また福音のために」となっています。

 いつの頃からか、社会はどんどん管理的な傾向が強まって、人に対して非常に警戒的になり、自己防衛的になって来ています。我が家でも、妻が私に携帯電話を持てと言うのです。それで買い与えられました。私がどこにいるかをチェックしようとしているんじゃあないでしょうかネ。私は自由でありたい。昔の犬のように、あっちこっちほっつきまわって、ご飯時になったら帰って来たい人間です。それを、携帯電話を持たせて首を縛るってわけです。本当に生きにくい時代ですネ。

 冗談はそれまでにして、今の社会には、「自分の命を救いたい」「自分たちの命を守りたい」と思う心理が過剰に働いているような気がします。だが、自分、自分と余りに考える時には、失敗を恐れて、大胆さや勇敢さを失ってしまいがちになります。警戒心が昂じると他者はライバルになり、脅威になって、気楽に友を作れなくなります。大金持ちの人というのは、安全な人としか交際しません。家に入れてくれない。それは親の代はいいですが、そういう家庭で育った子どもは早い時期から人間を区分けして付き合うので、人間について偏見を抱き、人間性をゆがめて行きます。

 これらのことは、日本だけでなく全ての先進国で起っていることですし、発展途上国でも起りますし、現代だけでなく、イエスの時代でも起ったことです。

 「自分の命を救いたい」とは、もっとはっきり言うと、「自分の命だけを救いたい」「自分達だけの命を救いたい」ということです。自己への執着、エゴイズムの姿です。

 そのエゴイズムの結果、家庭内紛争が起り、部族や民族間の衝突が勃発し、国と国との争いが起ります。

 このようにして、「自分の命を救いたい」と思う者は、長い目で見ると「それを失う」のです。救いを失い、平和を失い、満たされ癒される生活を失うのです。そして愛を失います。

 それに対し、「貧しくなることを恐れず、財産を保障しようとすることから自由になり大胆になることは、計り知れない力の源です。このような生き方によって、私たちの命は大胆に発揮されていきます」(ブラザー・ロジェ)ということができるでしょう。

 今日の日本人が殻に閉じこもり、自由さと活気を欠いているのは、自分の命と財産から自由になりきれないからです。

                                 (3)
 イエスは、「私のために自分の命を失う者は、それを救うのである」と言われました。

 「私のため」とは、キリストや神、真理のためです。そういう永遠の価値のために命を使い、命をすり減らすことです。ソロバン勘定で生きず、神の栄光のために命を使うことです。むろん、神のために命を使うことは、隣人のために命を使うことと切り離すことはできません。隣人愛を欠いた信仰というのはありません。信仰は愛によって働き具体化されます。

 ある伝道者がいました。彼はキリストにすっかり捧げて生きましたが、不器用なために伝道はうまく行きませんでしたし、若くして召されました。人はそれをどう見たか知りませんが、私は何の成果がないかに見えても、キリストのためにすっかり命を失ったことそのこと自体に重要な意味があったと思っています。何の良い成果が上がらなくても、心からみ名をたたえて行った、それは何ものにも代えがたい宝物です。東方の博士達が捧げた宝物に劣らない宝物です。

 星野富弘さんのことは詳しくお話しなくてもお分かりでしょうか。花の絵に添えられた詩は素晴らしいものがあり、外国語にも翻訳されて世界で読まれています。

 星野さんは高校生の時、お父さんの畑仕事を手伝って、裏山の斜面にある畑まで豚小屋の堆肥を背負って運んだそうです。それはなかなかきつい仕事です。ある日、途中で一息つこうと畔に座りました。ふと見あげると、まだ新しい白い木の十字架が目に飛び込んできて、「労する者、重荷を負う者、我に来たれ」という言葉が書かれていたそうです。

 重い堆肥を背負って坂道を上がってきて、まさに「重荷を負って、労して」今座っているのですが、何かホッとする言葉だと思ったそうです。しかし「我に来たれ」という意味が分からなかったといいます。

 それから月日が流れ、10年ほど経って、中学の体育教師になっていた星野さんが首の骨を折り、肩から下はまったく動けなくなり、長期に亘る入院生活が始まりました。二度と回復することのない身になられました。それで、チクショウ、チクショウ、何をするにもチクショウという言葉が出るほど絶望に直面するわけです。その時出合ったのが、差し入れられた聖書で、そこに「疲れた者、重荷を負う者は、誰でも私のもとに来なさい」という言葉があるのを知って驚き、やがて信仰に導かれます。

 その後、口にくわえた絵筆で花を描きそれにご自分の詩を添えた詩画を書き始め、それが人々に注目され、今では詩画集は何冊にも及んでいます。作家の水上勉さんは、星野さんの花の詩集を評して、「これは文学史に残る営為だと思う」と書いているほど優れた詩です。

 後ほど分かったことは、あの白い木の十字架は、病気だったか不慮の事故だったかで亡くした幼い子どものために、ある若い夫婦が建てたものだと言うことでした。

 「なぜ、こんな不幸が私たちを襲うのか。」子どもの死に意味を見出せないで、悲しみの中でその夫婦は木の十字架を建てたのです。若い夫婦の叫びが聞こえるような十字架です。

 ところが、無意味に見えた子どもの死が、一人の信仰者を生むきっかけを作ったのです。泣いて悲しみ、神の存在も疑った無意味に見えた子どもの死が、10年以上も経って、実はそこに神の隠された摂理があったということを、この両親は知るのです。

 神様のために捧げた東方の博士達の宝物に劣らない宝物。10年以上も経ってそれが分かるわけです。摂理は、英語でプロヴィデンスと言います。これはプロヴィデオという言葉から来ています。予め見るという意味です。神は予め、この幼い子どもの死の深い深い意味を知っておられたのです。

 もし若い夫婦が、子どもの死によって信仰をすっかり失い、木の十字架など建てず、「労する者、重荷を負う者、我に来たれ」というキリストの言葉を書かなかったら、星野さんのような人は世に出なかったかも知れません。

 その夫婦は悲嘆にくれつつ、敢えて信仰にとどまったのです。この「敢えて」とどまることが、「キリストのために命を失う」ということです。彼らはそのようにして、命をキリストのために使ったのです。

 自分たちの悲嘆を貫き、神を呪って去って行ったら、この奥深い神の神秘は起らなかったでしょう。

 23節に、「私について来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って私に従いなさい」とありますが、この夫婦は、「敢えて」自分を捨て、「敢えて」自分の十字架を背負って従ったのです。彼らはどんなにかキリストのために命をすり減らしたことか。その結果、命を救うことになり、星野さんという一人の人間の命をも救うことになりました。

 先週のテゼの集いで、「信じる者たちは、その数がどんなに少なくても、望みなき時にもなお望みつつ、信仰の源に向かって進みながら、人類の歴史の筋道を変えていくのです」という言葉を読みました。キリストの言葉に敢えてとどまる時に、歴史の筋道さえ変えられるのです。

                                 (4)
 イエス様ほど、人生は豊かな意味を持っていることを証しした方はありません。神の子として、父なる神の愛に根ざしながら、その命を最後の時まで十分に生きられました。人類の罪を背負って十字架につき、最後の一滴まで人間に代わって苦き杯を飲み干し、死の間際に敵対する人たちの罪が赦されることを祈り、強盗たちと十字架につけられてその強盗をも救って息を引き取られました。

 私たちは貧しく罪多い者であるにかかわらず、イエスの目には、私たちはご自分の存在よりもはるかに重要であるのです。イエスの心はまことに低く、神の子であるのに高ぶられず、「私の目には、あなたは価高く、貴い。私はあなたを愛する」と私たちに語られます。イザヤ書43章のこの言葉は、罪人である私たちをも貴く取り扱ってくださるイエスの言葉として霊的に読む時、この言葉の真価が発揮されます。

 イエスは、たとえご自分が地獄に落ちようとも私たちを救おうとされます。それがイエスアガペーの愛であり、洗礼はその愛を感謝して信じることです。立派な人間になることでなく、ただ一方的に私が愛されていること、貴く取り扱ってくださることを感謝して受けることです。

 そして、イエスがご自分をお与えくださった事実が、私たちの隣人愛の源となり、励みとなり、力となります。

 ザアカイは徴税人の頭(かしら)でした。ろくな人間でなく、罪人のかしらと目されていました。だが、イエスがエリコの町に来てザアカイの友になられたのです。だから、あの邪悪なザアカイは心を開いて、貧しい人のために財産の半分を与えますと言うようになったのです。財産の半分を手放せるほど自由な人間になったと言うことですから、すごいことです。現実にこんなことをできますか。

 イエスとの出会い。それによって掛け替えのないものを得たから、他のものが宝でなくなったのです。

 私たちも色々な恐れがありますが、イエスアガペーの愛をいただくとき、敢えてそれを乗り越え、隣人愛の一歩を僅かですが始めることができるでしょう。しかも、不安でなく、喜びをもってです。主が私たちの前途を整えてくださるのですから思い煩う必要はないのです。「不安でなく、喜びの生活」が待っています。

   2007年11月18日
                              板橋大山教会   上垣 勝

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  (今日の写真は、テゼの隣りアメニー村の11世紀のロマネスク教会)