どう生きる―永眠者を覚えて―(下)  ヨハネ3章1-8節



                                (4)
 イエス様はそこで、「人は新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」と言われ、「肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である」と語られたのです。

 日々の生活を新しく生きるには、神様からの霊、キリストの十字架と復活に表わされた神の愛を与えられて可能になるということです。また、地に属する者は地のことを考え、天に属する者は天のことを考える、と言うことでもあるでしょう。パウロは、「肉に従って歩む者は、肉に属することを考え、霊に従って歩む者は、霊に属することを考えます」と言っています。

 自己自身への執着と関心から、自己を越えて生きる理由を発見し、人は誰によって人生へと招かれているのかを発見する時、即ち神によって人生へと招かれており、それ以外の何者によっても招かれたのではないことを発見する時に、日々の生活を新しく生きるものになるのです。

 もし人が天に属さず、地にのみ属していれば、人はきわめて孤独でもあるでしょう。経済、経済、経済とお金のことで忙しく動き回り、お金を儲けることだけに生きて莫大な遺産を残しても、後を継ぐ者が「賢者であるか、愚者であるか誰が知ろう。」コヘレトの言葉は皮肉たっぷりに語ります。

 遺産があるために子どもが愚者で遊び人になったり、子ども達が親に優るとも劣らないほどの賢者であるため、遺産争いにもつれ込んで、西武の堤一家のようにならないとも限りません。そのような賢者である子供同士の裁判沙汰は今日ざらにあります。

 コヘレトの言葉は、これでは「夜も心は休まらない。苦労してみても何になろう。実に空しい」と言います。

 地にのみ属していればそうです。永遠性を含んだエネルギー、550年にもわたる病院を続ける堅固で不動のエネルギーは出てまいりません。

                                (5)
 しかし、「霊から生まれるものは霊である。…風は思いのままに吹く。…音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者もその通りである」というのです。

 キリストとの出会いによって、生きる根拠を神の中に置くようになるなら、私たちの生涯の方向性がはっきりします。するとその歩みが確かなものになります。

 人生がどんなに孤独でも、神はおられ、全存在をもって私たちの側におられ、絶対的な力を持って守ってくださる。だからこそまた、孤独からも自由にされ解放されるのです。霊から生まれた者も、風のように神の見えざる意志に導かれ、その御心に賭けて行くので、人の計算を越え、自由に垣根を越えて生きていけるのです。

 今回のテゼの聖書の学びの時、ブラザーが、「私たちの内面の羅針盤は、いつも自動的に北を指していますか」と尋ねました。

 しっかりと北を、眞の神を指していれば、世界中どこにいようと、どんなに渺々(びょうびょう)と広がる大海原のような孤立無援のようなところに置かれても、大丈夫です。そこでも朗らかに、神の恵みをそこここに発見して人生の航海ができるでしょう。

                                (6)
 イエス様は、「誰でも水と霊とによって生まれなければ」とおっしゃいました。イエスヨルダン川で洗礼をお受けになった時、霊が鳩のように降ったとあります。ここは洗礼を指しています。

 洗礼は、元は川や池などでなされました。受洗者は水に沈められた後、引き揚げられます。それは古い肉に生きる自分に死んで、キリストと共に暗い水の中から明るい陽の光の中へ、霊的な生活へと引き揚げられ、悪の力から解放されること、死人の中から復活されたキリストによって色々な不安や死の恐怖から力強く引き出されること、今から後はキリストの復活に与る者になることを象徴しています。復活のキリストが弱い私たちにそのような解放と自由をお与えくださるのです。

 ヨハネ15章で、イエスは、「私はぶどうの木、あなたがたはその枝」と言われ、「私につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ」、「私の愛のうちにとどまりなさい」と繰り返し語られました。

 イエスは私たちを、その愛の中にとどまるようにお招きになります。そこに根を生やしてとどまりなさいということです。内面の羅針盤がいつも自動的に、無意識的に神を、キリストを指している。それがキリストにとどまるということです。

 否。私たちは人間です。少し位ぶれることがあります。私などは特に弱いですからぶれることが多いです。時には他のものを指そうとして探していることがあるかも知れません。しかしそんなことがあっても恐れないんです。「こんな信仰者はダメだ。信仰の失格者だ。偽善だ。…」といって責めないことです。それは悪魔の誘惑です。悪魔は、自責の念を駆り立てて私たちを神から引き離そうともします。ですから、また元に戻って、北を、神を、キリストを指せばいいのです。

 召された人たちも、多分そのようにして生きたのです。

 「風は思いのままに吹き」ます。信仰の霊に生きる人は、失敗にも成功にも縛られません。自分にも他者にも縛られません。あのボーヌの病院は、恐れず、惑わず、その信仰の一歩を550年前に始めたのです。私たちも、特に貧しい人を愛し労わることにおいて大胆であっていいのです。

 私たちはキリストの霊に導かれ、神が遣わされるところに今週も遣わされ、そこで僅かながらでもいいキリストを指し示して生きましょう。(完)

    2007年11月11日
                               板橋大山教会   上垣 勝

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  (今日の写真は、ボーヌの街角で。)