雨蛙の歌 ―あなたは神の作品― エフェソ2章8-10節



                                 (1)
 今日の箇所に、「あなたは神に造られた者であって、しかも神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたのです」とありました。

 「神に造られた者」という言葉は、前の訳では「神の作品」となっていました。何かに出品する作品となれば、子どもも大人も、心を込め、精一杯力を注いで作るものです。「神の作品」である私たちもそうでしょう。神は、全力を注ぎ、愛をもって、私たちを造られたということです。

 また、「神の作品である」とは、人の目にどう映ろうと、神が心を注いで造られたのですから隠された魅力が必ずある、神の目には善いものとして映っているということです。多くなくても、何かいい物を一つはお授けになっている筈です。

                                 (2)
 もう20年程前に、ウイルキーさんというアメリカ人の牧師が日本を訪れました。講演会があり壇上に現われて、私は初めて両腕がないことを知りました。それも、生まれた時から両腕のない方でした。だが車の運転をし、自分で服を着たり脱いだり、腕時計を足につけたり、足につけても腕時計と言うんですね、また、器用に髭(ひげ)をそったりもされました。その場にいた人は皆、びっくりし強い衝撃を与えられました。

 この方は、神に守られて、安心し切って生きておられると思いました。五体満足な私たちより、もっと満ち足りた生活を送っておられるふうでした。

 そして聴衆に向かって、「『私たちは神の作品だ』と聖書にあります。だから自分も神の失敗作でなく、神の良い作品だと思っています。一般の人と比べて足りない所や部分はあっても、工夫して生きています」と言われたのです。

 神の恵みは自分のところにも十分に届いています、満ちていますと、顔を輝かせてお話なさったのです。それは感動的な場面であり、その言葉には光があり、命があり、多くの人を励まし、慰めもしました。

 人が作った作品はどんなに完全に見えても、しばらくすると不完全さが見えてきます。だが、神が作った作品である私たちは、不完全で不自由さを持っていても、それを越えることができるのです。神は人間を、欠けをも越えることができるような作品に作られたところに、神のみ業の完全さがあります。神の力は、弱い所に完全に現われるのです。

 私たちは、欠けたり、曲がったり、欠点があっても、それに負けちゃあいけない。ふて腐れちゃあいけない。そんな私であっても、神は必ず何かいい物を授けて下さっている筈で、神は、私たちの欠点に負ける方ではありません。欠点を越えて、いい物を育ててくださる方でもありますから、自信を持ってそれを生かせばいいのです。ですから、自分自身をそのように見るだけでなく、人をもそのような目で見るのです。愛するとは、神のまなざしで人を見ることです。

 ウイルキーさんは、まさに大きな欠けを持っておられました。しかし、両腕がないのにハーバード大学を卒業し、神学校を更に出て、5人の息子さんの父親にもなられました。

                                 (3)
 秋本番の中なのに季節外れの話ですが、福井にいた頃、梅雨の晴れ間を見つけて、毎年園児達とあじさいの美しい山の公園に歩いて出かけました。雨の中を行くこともありました。雨の中を行くと、晴れの日とは違ったことを子ども達と発見することができました。晴れの日は晴れの、雨の日は雨の良さが、それぞれあるのです。

 ある年に一緒に行ったら、雨蛙が、緑の身体を緑の葉っぱの上に乗せて鳴いています。同系色なので、どこにいるのか殆ど見分けがつきません。それででしょう、安心し切って鳴いていました。あんな小さな、か弱い雨蛙さえ、自分のいるべき場所を見つけると、安心し切って、健康な雨を呼ぶ歌を伸び伸び歌っているのです。そのことに私は教えられました。

 私たちは小動物からさえ教えられるように、神は造って下さっているのです。

 私たちは、神の恵みに委ねて、心の一番深い所にある自分自身になっていないと、大の大人でも、人の言葉にうろたえ、社会の変動に動揺し、身体のことで思い煩い、明日のことであれこれと迷います。表面は動揺を隠せても、自分には隠せません。いるべき所にいないからです。

 「ある晴れた朝、目を覚ますと、どんなに機能的で高度な技術に満ちていながらも、内面の命が絶えてしまった社会であったとしたら」と、現代社会についてある人が書いています。「内面の命が絶えてしまっている社会。」本当に日常的にあちこちでそれを感じます。会社の中で有能な人材であっても、喜びの火がすでに消えていたとしたら、どうでしょうか。そういうことも感じます。

 しかし、神を信じる時、あじさいの保護色に救われている雨蛙のように、神に守られ安心して生きることができるのです。赤ちゃんが、お母さんの懐ですやすや眠るような、絶対の信頼をもって自分を投げ出せるのです。あの投げ出せる力、委ねられる力が、平和を授けられる力です。

                                 (4)
 8節に「恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です」とありました。

 努力や苦行や自力で救われるのでなく、ただ幼な子のように神の恵みに委ねる時に救いがあります。自分の力では安らぎは来ません。心の平和、喜び、自由は神からやって来ます。賜物として与えられます。

 全能の神は、一人ひとりを知り尽くしておられます。神に委ねて生きるように、その時平和があるように定めておられます。しかも私たちの弱さも知り尽くしておられて、懲らしめるためでなく、どうすれば弱さも強さもうまく発揮しうるかを知っておられるのです。

                                 (5)
 この2章の最初には、「あなたがたは以前には死んでいた。今も世を支配し、勢力を持つ者に従い、過(あやま)ちと罪を犯して来た。以前は、肉の欲望の赴(おもむ)くままに生活し、心の欲するままに行動し、神の怒りを受けるべき存在であった。
 しかし、憐れみ豊かな神は、私たちをこの上なく愛して、死んでいた私たちを生かし、キリストと共に復活させ、天の王座に着かせてくださった」とあります。

 時間の関係で詳しく申せませんが、「神の作品」とは、このことを指しています。過去はどんな存在であっても、憐れみ豊かな神は、死んでいた者をも生かして、神の作品にしてくださり、天の王座に着かせて下さる方なのです。

 雨蛙は、緑の葉っぱの上で座っていますが、私たちは天の王座に着かせて下さるのです。

  2007年10月21日                    
                                 板橋大山教会  上垣 勝

  ホームページはこちらです:http://www.geocities.jp/itabashioyama_ch/

  (今日の写真は、①ケンブリッジ・ウエスレー・メソジスト教会ウオーキング・グループ。
          ②ウオーキングは牧場の柵をも乗り越えて進む痛快な小旅行。)