あなたは手段ではない マタイ12章15-21節



  
                                (1)
 私たちの周りには、その人が現われるとほっとして、希望を与えてくれそうな人というのがあります。そういう人は悲観的でなく、事実を見ながらも楽観的です。どんなことが起っても笑っているようなところがあります。

 イエスが他の人と違うのは、人を生き返らせる言葉と行為をもっておられたことです。イエスは、どこに行かれても、その所で人を励まし希望をお授けになりました。そして実際に道が開かれました。

 聖書は、イエスの人格をあらわす言葉を多く書き残しています。「私は世の光である」という言葉は、まさにイエスの人格を見事に言いあらわしています。イエスは、どんなに希望の見つからない、暗闇の世界にいる人にも、光をお与えになる事がお出来になったからです。

                                (2)
 今日の箇所には、「大勢の群衆がイエスに従った」とあります。「イエスはそれを知って、そこを去られた」にもかかわらず、群衆が後を追ったのです。

 「それを知って」とは、直前に書かれているように、当時の指導者であり宗教家であるファリサイ人たちが、イエスを何とかして殺そうと相談したことを知って、ということです。イエスにそういう命の危険が迫ったにかかわらず、大勢の群衆は恐れずイエスに信頼をおいて従ったということです。

 そして、イエスも群衆から逃げられなかった。むしろ、イエスは「皆の病気を癒して」とありますように、躊躇せず気前よく彼らを助けられました。

 私たちも躊躇なく気前いい人になりたいです。私は気前いい人を好みますが、自分がどれだけ気前よくしているでしょうか。私は4人兄弟の末っ子で甘やかされたからでしょうか。気前よくない者の最たるものです。若い時、子どもにも気前よくない、むしろ彼らの分まで食べたいと思う父親でした。「お父さんこれ上げる」と言われるほどでしたね。ですから、気前いい若い父親や母親を見るとそれだけで感心します。

 「受けるより、与える方が幸いである」と聖書にありますが、これは気前よくしなさい、という意味も含むでしょう。近年思いますが、確かに与えていると必ず幸いが巡って来ます。

 大学病院にかかった事を先日申しました。その時、ある看護師さんの手当てに大変教えられました。思わず、「ナイチンゲールのような方ですね」と言ってしまいました。そしてナイチンゲールの著書や、ロンドンにある銅像などの話をしましたら、更に丁寧にまるでVIP大物人物であるかのように丁寧に扱って頂きました。それが私の目的だったのではありませんよ。

 何を教えられたかというと、誰に対しても親切に心をこめて、知識をフルに発揮し、出し惜しみせず対応するということです。今の時を仮の時や、間に合わせの時と見るのではなく、どんな時も大事な本格的な時として対応すること。日常を、正式に生きる。間に合わせで生きないということです。

 私は間に合わせの食事をしばしば戴いておりますが。今、間に合わせの食事を要求しているのではありません。私たちの周りには学ぶべき人が沢山います。注意して学べば、学ぶ機会が多くあります。

 イエスは躊躇せず助けられました。今日の箇所には「深く憐れまれた」という言葉は出てきませんが、他の福音書では、ご自分の所に来た群衆が「飼う者のない羊のよう」であるのを見て「深く憐れまれた」と報告されています。これはよく言われるように、「内臓がねじれて痛くなるほど」案じることです。イエス様は全身憐れみをもっていたわり、愛し、助けられたのです。何と気前いい方でしょうか。

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 ところがその後、「誰にも言いふらさないように」、群衆に命じられたと書かれています。

 このことは、福音書記者には驚きを覚えることだったに違いありません。それで、旧約聖書イザヤ書の預言を引用することで、イエスの態度を裏付けようとして、「それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった」と書いたのでしょう。

 私たちも、イエスの行動をどう理解すればいいのでしょう。人を癒し、元気づけ、奇跡さえ行なわれた方が、「誰にも、このことを知らせないように」、口外するなと言われたのです。

 このことは、イエスという方が色々な宗教の教祖とは全く異質な方であることを明らかに示しています。イエスは自分のために来られたのではありません。ですから、自己宣伝をされないし、他の人に宣伝してもらおうともされない。自分の所に集まった人を、自分の手段に使われないのです。

 資本主義社会というのはいい所もありますが、悪くすると人を手段にします。一人の人格として扱わず、物やお金と見る悪魔的なところのある社会です。単なる労働力と見、金儲けの手段と見ます。そこに怖さがあります。そうなると金儲けのためには手段を選ばずということにもなりかねません。ここに人間の疎外が起ります。

 先ほど、リビングで教会学校をしていました。新聞を広げて何をしているかと思ったら、「不義」という言葉の説明をしているんです。三面記事を広げて、「これが不義でしょ。これも不義でしょ。このページは不義のページなの」って言ってるんです。エッと思いながら、ほんとだなあと思いました。

 私たちの身近な所にも、人を本当の意味で大切にしない、物としてしか見なかったり、敵としてしか見なかったり、友人以外は皆敵のような態度や、愛してくれる人だけを愛する風潮があるのではないでしょうか。人を手段としか見ない功利主義的な風潮です。

 ペトロの手紙は、「穏やかに、敬意を持って、正しい良心で」人に接しなさいと勧めていますが、こういうい日常的な生き方は大変重要です。今日ほど聖書の教えが大事になっている時代はありません。

 イエス様は、人を自分の手段にされないのです。そして敵をも一人の人格として穏やかに、愛を持って接して行かれるのです。

                                (4)
 さて、福音書記者はキリストを預言するものとして、イザヤ書42章から、「見よ、わたしの選んだ僕。私の心に適った、愛する者。この僕に私の霊を授ける。彼は異邦人に正義を知らせる。……正義を勝利に導くまで、彼は傷ついた葦を折らず、くすぶる灯心を消さない。…」という言葉を引用しました。

 イエスは、神の霊を授けられた方であって、最後的に正義が勝利することを望まれる。神は、弱く傷ついた者や、名もない虐げられた人たちが滅びないように、神の僕キリストを送って下さって正義を勝利に導かれると言うことです。

 そしてこの僕は、「争わず、叫ばず、大通りで声をあげない。」静かに正義を実現して行く方である。

 大通りだけでなく、家の中でも静かに正義が実現されなければなりませんね。家の中で声を荒げても、正義は実現しませんよ。むしろ静かな、穏やかな声の方が父ちゃん、母ちゃんに効き目があります。

 神が遣わされる僕・キリストは、傷ついた葦、よろよろと風に揺れて今にも折れそうな葦をも折ることなく、穏やかに声を掛け、接しられる方であると言うのです。

 年を取ると足がおぼつかなくなります。ノロノロから、ヨロヨロになり、ヨボヨボになります。そういう人に、イエスは優しく、穏やかに接しられると言う意味もあるでしょう。「そういう人」と他人事のように言いましたが、全ての人はやがて必ずそうなりますから、全ての人間にイエスは優しくあられるということです。

 そして、中でも傷ついた葦、今にも倒れそうな人たちに対してそうです。

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 さて、福音書記者がイザヤ書を引用して語ったのは、キリストの姿を見つめれば見つめる程、キリストは神から遣わされて、苦しみ悩む人たちが滅ぼされないように生きられた方であったと見たためです。絶望の淵に立つ人たちの、まだ僅かに残っている望みの光がなくならないようにと、来られた方であると考えたたからです。

 イエス様は、誰をもつまらない者とは見られません。どんな人も見下げられません。決して、そういう蔑(さげす)んだ軽蔑の目でご覧になりません。イエスは、ご自分が出会う全ての人の内側にあるもの、その魂の深いところにある貴い、隠れているものをご覧になります。悲しみも、痛みも、その原因も皆ご存知でありつつ、それでも残された可能性をご覧になります。そこにある本人も知らない切なる願いを見て取られます。

 神に似せて創造された神の似姿を見て取られるのです。そして、「正義を勝利に導くまで、傷ついた葦を折らず、くすぶる灯心を消さ」れないのです。

 21歳の女性から20万円を貰って自殺を幇助した、驚くような事件が起こりました。犯人と、自殺をした女性の両者のことを考えさせられました。家庭を持ち、子どももいる犯人にはとんでもないと言う思いと、神なき世界、神を失った世界はここまで来たかという、非常に心の重い思いを先週は抱かされました。

 それと共に、この女性のことです。20万円を払ってまでして自殺をする。人の手を借り、20万円払わなければ死ねない程の悲しさ、絶望、辛さ、闇とは、いったい何でしょう。

 人生の袋小路にはまり込んで、にっちもさっちも行かなくなったのでしょう。この先、何も良いものがないという人生への悲観、絶望だったのでしょうが、たとえそれでも、自殺でなく、別の道が必ずあった筈です。キリストにおいて必ず別の道が与えられたと思うと残念でたまりません。

 イエスが来られたのは、こういう傷ついた葦のような弱った魂、くすぶって今にも潰(つい)えそうな人たちが滅ぼさられないように、消されないように、正義が最後的に勝利するように来られたのではなかったでしょうか。

 イエスは、21歳のこの女性の内にも、貴いものが隠されていると見ておられた筈です。イエスは、そういう不安の中で生きる人に、その人も尊ばれ、愛され、正義が勝利するように、社会の犠牲者にならないように来られたのですから。

 皆さん、もしそういう人があるなら、ぜひ教会にお連れ下さるようお願いしたいです。キリストは、「道であり、真理であり、命である」と言われていますが、キリストはどん詰まりの中で本人も気づかない生きる道を見つけてくださる方であり、その人の道となって下さる方です。その方と道を探したいと思います。

 キリストは、ご自分の前に立つ人を、手段にされません。どんなメッセージのための手段にもされません。ただその人が新しく希望を見出して生きれるようになるために来られたのです。まだ微かに残っている望みの光がなくならないように、必要なら命も惜しまず与えるために来られたのです。キリストは傷ついた人たちのために、ただ命を与えるために来られたのです。

 2007年10月14日
                          板橋大山教会   上垣 勝

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  (今日の写真。イギリスで宗教改革が初めて議論された所。ケンブリッジのキングス・カレッジの壁に掲げられている説明板と記念のレリーフ。)