ヨブ ―苦難が授けた悟り―(下)  ヨブ記42章1-6節


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 ところが3章からのヨブは、神は呪いませんが、自分を呪いはじめます。余りの辛さに、自分の生まれた日も、自分の存在することも呪います。それは神を呪うことでありませんが、自分を呪うことは神を呪うことのすぐ隣にあるものです。

 そういうきわどい所に立ったヨブに、3人の友人が語り始め、立て板に水のような流暢な言葉で語るあまりに安易な慰めの言葉、また律法主義的な因果応報の考え、それは日本で仏教的な考えにも通じる因果応報的なものですが、ヨブは次々反発して、かえって神への疑問を増し加えていくのです。それが、4章から40章辺りまで続き、この論争がヨブ記の大半を占めます。

 遂にヨブは、人間は結局、神を理解できないこと。人を当惑させるようなことをなさる神など、人は理解できないという結論を出して、懐疑主義者になって行くのです。

 28章は、「神の知恵の賛美」となっていますが、賛美でなく懐疑です。「知恵はどこに見出せるのか。それは命あるものの地に見出されない」(12,13節)と語り、20、21節は、「知恵はどこから来るのか。すべて命あるものの目に、隠されている」と語っています。

 自分が背負い込んだ運命や宿命的なもの。人生の謎。「どうして自分が、こういう目に遭わねばならないのか」という、一番知りたいことも謎に包まれたままに死んでいく。原因も結果も知らされないまま、無念さの中、納得できないまま永遠の謎として残り、死んでいくだけだという虚無感です。

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 ところが、全く望みが絶えてしまったかに見えた時に、神が絶望のヨブに現われます。そして、今日の42章1-6節で、ヨブにかすかな明かりが戻ってきます。

 4、5節の「聞け。私が話す。お前に尋ねる。私に答えて見よ」との神の言葉に、「あなたのことを、耳にしてはおりました。しかし、今、この目であなたを仰ぎ見ます」とヨブは答えます。

 神の知恵と悟りを求めていたヨブは、力尽きた時に、神の方から現われてくださったのです。だが、ヨブを悩ましていた問いへの答えは、知的なものではありませんでした。ヨブは、人生の謎を解く、納得のいく知識を与えられたわけではありません。しかし、苦難のただ中で神を仰ぎ見、神の語る言葉を聞き、神が尋ねることに答えていこうとします。

 ヨブはこれまで、「あなたのことを耳にしてはいたのです。」神のこと、神についての知識を聞いていました。だが、神について聞くことと神に聞くことは、本質的に質的な違いがあります。私たちは、神についてどれだけ沢山聞いても満足できません。納得しても信仰にはなりません。神と現実に出会い、神から聞くようになる時、その信仰は生きた信仰になり、満たされます。

 この1週間に、イギリスの新聞に日本のことや日本人のことが2回大きく報道されました。一つは、先ほど司式者のお祈りの中にありましたが、ミャンマーのラングーンで射殺されたカメラマンの長井さんのことです。軍によって至近距離から故意に射殺されたことです。朝日新聞の夕刊は、長井さんが倒れている場面は省いて報道しました。朝刊になって何かがあったのでしょう。長井さんが倒れている場面も含む写真を載せました。朝日も何かを恐れているな、と思いました。

 2つ目は、沖縄の人々の怒りです。これは昨日にイギリスの新聞は報じていました。しかも、沖縄戦のやや詳しいことも含んでいました。朝日は、もうそれは分かっていると言うのでしょうか、認識を新たにしようとはせずに昨日の集会を報道するだけでした。

 イギリスの新聞は先ず冒頭に、現在裁判が行なわれていますが、そこで証言した金城信明というバプテスト教会の牧師さんのことを書いていました。16歳の時、母と6歳の弟と4歳の妹を殺したのです。自決のためです。日本軍、皇軍の命令で殺させられたことを書いていました。手りゅう弾は兵隊が管理しているものです。決して一般人に手渡すことはありません。軍規です。それを一般人に渡したのは集団自決させるものだったからです。目の前で手渡され、直接集団自決を軍隊から命じられた事実を、そうでなかったと文科省は教科書を訂正して中学生に教えようとしているわけで、沖縄の人たちが怒るのは当然です。イギリスの新聞は、日本政府の右旋回を大変警戒した論調を掲げています。

 神に直接聞くから、信仰はリアリティをもって生きて来るのです。神について聞くのでなく、神の前に出て祈る。また神に聞く、神に答える。そのような神を仰ぐ信仰へとヨブは帰っていくのです。それが、「今、この目であなたを仰ぎ見る」という彼の言葉です。

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 ここで、ヨブに何が起こっているのでしょう。彼は、苦難の只中において、物事を見る見方を根本的に変革する神を経験します。彼を苦しめた試練が、活ける神に更に近づけたのです。

 ヨブの苦難は、これまでの神についての知識を越えて、神は災いでなく、将来と希望を与える方であること。愛の神へと近づけたのです。

 「その故は、神知りたもう」という本があります。シュザンヌの手紙とも呼ばれます。フランス人ですが、スイスに嫁ぎます。今から75年ほど前、シュザンヌ夫人が癌に侵され、病に伏す中で、放射線治療や手術を受け、転移や色々の苦しみを経験して、47歳で召されていきます。その闘病生活の中で夫に出した手紙が本になったもので、信仰の名著の一冊です。

 彼女は、「なぜ」こんなことになったのかと問わず、「その故は、神知りたもう」と語っていきます。人間は納得いかなくても、神の中に納得があると信じて神に委ねていきます。「私は、自分がなめるこの苦しみが、私の役に立つだけでなく(それだけでは余りにつまりません)、他の人々にも役立ち、神様のためにも役立ててくださるように」というような意味のことを書いています。「その故は、神知りたもう」ゆえに、神のために、神の栄光のために役立てて下さるようにと、生きたのです。

 何と雄々しい、単純素朴で、逞しい信仰でしょう。

 ヨブは、1、2章の時とは違い、友人との論争になってからは、「その故は、神知りたもう」というような態度はなくなります。むしろ、なぜなのかとしつこく言い始めました。だが、再び、神を仰ぐ中で、「その故は、神知りたもう」といった信仰へと導かれていきます。

 私たちは、神を見上げないと、「なぜ?」「なぜ?」と、懐疑だけが生まれます。平和が失われます。学問や研究にはこの「なぜ」という態度は大事です。しかし、神への信仰は違うのです。

 苦痛に満ちたヨブの経験は、そのただ中で神を仰ぐことによって一つのベールを剥がされ、神は人間の敵ではないことを発見させられ、敵でないばかりか神は人間の味方であり、将来を与える方、希望ある可能性を創造する方であることを、そういう見方の変革を与えられていきました。

 苦難も、神を仰ぐとき、私たちに新しい悟りを与えるのです。

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 先ほど私は、ヨブにかすかな明るさが戻ってきたと申しました。彼は、新しい悟りを与えられましたが、それは「かすかな明るさ」でしか過ぎません。ところが、私たちにはすでに決定的な確かな明るさが経験しています。それは、イエスの誕生によって「暗闇に光が差し込んだ」ことを知たからです。

 もしヨブが、イエス・キリスト、十字架で苦しんでくださる神を、私たちと同様に知ったとしたら彼の苦しみは弱まっただろうと思います。苦難の僕、罪なくして嘲られ、ののしられ、ムチ打たれた十字架のキリストを知ったとしたら、無念さは晴れたでしょう。

 長くなるので申しませんが、9章33節、13章19節、そして19章25-27節を後からお読み下さい。特に26-27節の口語訳は、「私を贖う方は、必ず地上に立たれ、…終わりに、私の味方として見るだろう。私の見る者は、これ以外のものではない」と預言しています。

 ヨブは贖う方・キリストを知りませんが、そのような方が来られることを待望していたのです。

 ヨブと違い、私たちはイエスの生涯を、十字架で苦しむ神、私たちを救うために苦しむ神を知っています。神の子キリストがなめられた試練こそ、私たちのなめる「なぜ」と問わざるを得ない深刻な試練に耐える力を与え、希望を与え、試練の中で新しい生き方への悟りを与えるものです。彼は、私たちの味方となり、傍らにあってそういう歩みへと導いてくださるのです。

 旧約聖書は、まだキリストが来ておられません。そのため、闇の中で手探りして救いを求め、明かりを求める人たちの姿を示しています。ヨブはまさに典型的なその一人です。

 新約聖書も、やはり闇を語ります。しかし、ただの闇でなく、闇の中に光が来たこと、明かりが差したこと、あなたの上に希望の光がのぼったことを力強く語ります。私たちもこの希望の光で顔を照らされながら今週も生きて行きましょう。

    2007年9月9日
                                 板橋大山教会   上垣 勝

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  (今日の写真は、私のお友達はどの人?)