ヨブ ―苦難が授けた悟り―(上)  ヨブ記42章1-6節


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 何も悪いことをしていない無垢の人間が、どうして災いに遭うのか。また、神を信じ、善を行ってさえいる人間が、どうして災難にあい、悪の犠牲になるのか。これは永遠に今日的なテーマです。

 不慮の死というのがまれになった今日、「なぜ」ということへの解けない思いが一層その苛立ちを増幅しているように思えます。

 そうした中で、ヨブ記は、神は果たして義なる存在であるのか。神は義(ただ)しい存在なのかというところまで、切り込んでいきます。神は本当に愛の神なのかと問います。

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 1章を見ると、ヨブは神を畏れ、悪を避けて生きる、まことに信仰深い人でしたが、災害や外国軍の侵入によって10人の息子、娘を次々に亡くします。だが、彼は神を非難することなく、決して罪を犯しません。万事休した状況においても、最善のことを行なっていきます。子供も財産もすっかり奪われたとき、「私は裸で母の胎を出た。また裸で、かしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主のみ名は、ほむべきかな」と、こころが張り裂けんばかりの中で、神をほめたたえるのです。

 ジョーン・ディディオンというアメリカの女性作家がいます。小説やノンフィクション、また劇作もする非常に有名な作家のようです。彼女は4年前に夫を亡くし、その2年後の一昨年、一人娘を亡くしました。著名な人ですが、彼女は打ちのめされました。特に夫の死は彼女を痛打し、4年たった現在も、夫の靴さえ処分できないそうです。

 ヨブは衣を裂き、髪をそり落とし、地にひれ伏すほどに砕かれたのです。10人の成人した子ども達を順番に家に招きいつも祝宴をするほど、愛していましたから、彼も全く打ちのめされた筈です。だが、それでも主を礼拝し続けたのです。

 私たちは、ヨブの信仰の姿勢から、どんな情況にあっても礼拝をし続けることを学びます。3節に「神の経綸」とありました。経綸とは、縦糸と横糸のことで、そのように張り巡らされた神の配慮に満ちたご計画です。英語では神のデザインとなっています。世界を貫く神のご意志を信じ、神は真実であられる故に、私たちも真実に礼拝者であろうとすることが大事だということを教えられます。

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 さて、やがて災いは、ヨブ自身の身に及びます。頭のてっぺんから足の裏まで、ひどい皮膚病にかかり、痒くてたまらない。灰の中に座って、素焼きのかけらで体中をかきむしる有様です。

 私はヨブの痒さが痛いほど分かります。というのは、2週間前、孫の**ちゃんを連れて小石川植物園に行ったのですが、後から分かりましたが、草むらに沢山銀杏が落ちていたのです。銀杏を拾って来たというのではありません。私は銀杏の怖さを熟知していますが、知らずに踏んでしまった。それで汁が左足の向うずねにかかりました。幸運にもそばに水道があり、すぐ水で洗いました。しかし翌日から、ビーズ玉ほどのかきむしりたいほどのぶつぶつがすね全体にできて、一番強い薬を頂いているのに13日後の今も治りません。とうとう昨日から大学病院に回されて、副腎皮質ホルモン剤を飲み始めました。これは珍しい劇症だというので、写真を2枚撮られました。私の足が教材で学生達に見せられるのでしょう。このホルモン剤は副作用が恐ろしいですから、たった2日間に限定してもらって用心して飲んでいます。

 これで治まると思いますが、私は、ヨブの時代に副腎皮質ホルモンがあれば、彼はこんなに悩まなくて済んだだろうと思いました。だが、ヨブが飲んでいれば、人類に多くの思索を与えてきた人類の知的世界遺産といえるヨブ記は残らず、人生と信仰の思索を深める機会が半減したことでしょう。

 ヨブは、素焼きのかけらで体中をかきむしるわけですが、その時、それにも優る大きな打撃を受けます。何かというと、妻が、私の家ではどうでしょうか、ヨブのところでは妻が強い言葉を吐くのです。

 あなたは、これでも、まだ神の前で無垢であろうとするんですか。「神を呪って、死ぬほうがましでしょう」と迫ったのです。するとヨブは、苦痛に耐えながら、お前まで、愚かなことを言うのか。「私たちは、神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか」と語って、罪を犯すことはなかったのです。

 何と強い、全幅の服従でしょうか。まさに「義人ヨブ」といわれる所以(ゆえん)です。

 私だったら、妻から言われたらついその気になるでしょう。愛しているから、そちらに傾いて、なびいてしまいます。そうです。愛されているんです。本人はそのことを自覚していらっしゃるか知りませんが。

 ただ、ヨブは、妻を愛するが故に、絶対的な神を優先することを選びます。それで、「お前は、何と愚かなことを」と言って退け、なびかないのです。そこが私と違う、ヨブの偉いところです。

 これが1章、2章のヨブです。

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 ところが、3章からのヨブは、神は呪いませんが、自分を呪いはじめます。余りの辛さに、自分の生まれた日も、自分の存在することも呪います。それは神を呪うことでありませんが、自分を呪うことは神を呪うことのすぐ隣にあるものです。

 そういうきわどい所に立ったヨブに……。 (次に続く)

   2007年9月9日
                          板橋大山教会   上垣 勝

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  (今日の写真は、赤い帽子の幼児)