形でなくこころ(下)  イザヤ1章11-18節


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 イザヤは、「悪を行うことをやめ、善を行うことを学び、裁きをどこまでも実行して」行くということを、「孤児の権利を守り、やもめの訴えを弁護せよ」ということと同列にして述べます。
 
 神は、一部の人たちでなく、全ての人と結びついておられます。神は例外なく全ての国民と共におられます。その中でも、最も弱い人たちや搾取されている人たち、また無力で無防備な人たちとご自分を結び付けられるのです。

 イエスは、マタイ福音書25章で終末の譬(たと)えを話されました。終末において、王は羊と山羊を右と左に分けるように人々を分け、右にいる人たちに、「あなたたちは、わたしが飢えていた時に食べさせ、喉が渇いていた時に飲ませ、裸の時に着せ、病気の時に見舞い、牢にいた時に訪ねてくれた」と言うだろう。すると正しい人たちは、「王よ。私たちはいつ、あなたが飢えておられるのを見て食べ物を差し上げたり、…飲ませたり、…見舞ったり、…訪ねましたか」と尋ねるだろう。すると王は、「はっきり言っておく。わたしの兄弟である、この最も小さい者の一人にしたのは、すなわち、私にしてくれたことなのである」と答えるだろう、とイエスは言われました。

 神を信じつつ、「この最も小さい者の一人」を無視してしまう信仰というのはありません。十字架の主を仰ぐ者は、いと小さい者への愛に生きれることを喜びとするでしょう。いと小さい人々といること、そのような人に尽くせることを感謝するでしょう。また、そのような人は多くのことを教えてくれます。

 詩編は端的に、「いかに幸いなことでしょう。弱いものに思いやりのある人は」と書いています。

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 では、「血にまみれた手」や「悪を行なう」者たち、また「搾取する者」や「孤児の権利を守」らず、「やもめの訴えを弁護」しない者たちはどうなるのでしょう。彼らには、徹底的な断罪や地獄行きが待っているのでしょうか。滅びしかないというのでしょうか。

 あれほど厳しく、激烈ともいえる言葉を発しているイザヤですが、1章18節に不可解な言葉を挿入しています。「たとえ、お前たちの罪が緋のようでも、雪のように白くなることができる。たとえ、紅のようであっても、羊の毛のようになることができる。」これはどういう意味でしょう。

 ひとたびまっ赤な緋色に染まった布を、雪のように真っ白にできるでしょうか。それは不可能です。紅のように染まった羊毛を真っ白にすることは決してできません。

 だが、その不可能を、神は可能にしてくださるとイザヤは預言します。人にはできないが、神にはお出来になると語るのです。アブラハムは100歳、サラは高齢の不妊の女。だが神はその不可能を可能とされました。90歳のサラがイサクを出産したのです。常に悪を行い、高慢で、神に逆らう者たちですら、神は雪のように真っ白な姿に創り変える力をお持ちなのです。

 だが、このことが人類に明らかにされるには、700年以上待たねばなりませんでした。

 「罪人のかしら」であったパウロは、そのことを自らの身に深く経験しました。彼は、キリストの敵であり、神の敵でありました。その罪は緋のように真っ赤で、神にも人にもその罪は明らかでした。だが、彼は復活のキリストに出会り変えられたのです。その時、いったん目も潰れます。しかし、キリストの憐れみを受けて再生されます。後に、彼は、「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖(あがな)いの業(わざ)を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです」と書きました。

 預言者イザヤの言葉が激しくきつければきついほど、人の罪の贖いはいかに大きな、予想を越える恵みであるかを教えられるのではないでしょうか。
  2007年9月16日
                                 板橋大山教会   上垣 勝

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  (今日の写真。カンタベリーの町を流れるスツール川の支流に平底の舟が行きかいます。左はチューダー王朝時代のハタ屋-オランダからの亡命者がもたらした-の一つで、今は有名なレストランです。)