形でなくこころ(上)  イザヤ1章11-18節


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 先週の水曜日は思いがけないことが起こりました。世界第2の経済大国と呼ばれ、先進主要国の一つである日本の首相がどんなに脆い人であったか、一国を率いる代表者がこんなに未熟な人間でよかったのだろうかと、社会や国、また人間というものについて色々と考えさせられました。

 さて、そんなことが起こるとは想像もせずに先週、イザヤ書を選んで今日を迎えました。

 イザヤ書は、聖書の中で詩編に次ぐ長い書物で66章あります。しかし実際は、時代が約200年異なる3人のイザヤによって語られた預言だと言われています。今日のイザヤは第1イザヤという人物で、39章までその預言は続き、紀元前750年前後の約40年間、南王国ユダで活動した人です。

 「主の僕の歌」として有名なイザヤ書53章を預言した第2イザヤと違い、第1イザヤは貴族出身の高級祭司です。ですからその分、政治家たちの生活や貴族や高級祭司たち、すなわち国の指導者たちの生活内容をよく知りながら預言者として召命を受け、神の言葉を語りました。

 自民党の総裁選に2人の人が対決するようです。対決と言うものの庶民から遠いなあと思うのは、2人とも首相経験者を父に持ったり、祖父が首相であったり義理の父も首相であったり、一族は何人も代議士を出している家系です。これでは自分たちの権益を守る政治しか出来ないなあと、庶民は誰しも率直に思っています。外国の新聞は、日本は行き詰ってまた古いタイプの政治家登場という見出しをつけています。

 イザヤの家柄もいいのです。ただ彼の場合、神によって砕かれるという、自分は神の前に滅びるばかりだという自己崩壊的な経験をしています。その結果、権力に溺れず古い過去の体制に戻そうとしない改革を求めた人です。改革と言っても自分たちに都合のよい改革ではありません。

 彼はイスラエル預言者ですから、政治家ではありません。神のみ旨を語るスポークスマンです。イスラエルの民を慈しみ、こころを注いでその民を育てようとされる神の御心を明らかにしようとしました。

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 しかし、先ほど司会者がこの箇所を朗読するのを聴いて、何と厳しく、激烈とも言える神の言葉が機関銃のように連発されているかと思った方もあるでしょう。

 「お前たちの献げる多くのいけにえが、何になろうか。」
 「羊や獣の献げ物に、わたしは飽いた。」
 「空しい献げ物を、再び持ってくるな。」
 君たちの行なう儀式や集会に、「私は耐えない」
 「祈りを繰り返しても、わたしは聞かない。」
 「わたしは、お前たちを担うのに疲れ果てた。」

 神様がもう疲れ果てたと言われるのです。

 更にこの後の節には、「そこには公平が満ち、正義が宿っていたのに、今では人殺しばかりだ」(21節)とあり、「支配者らは無慈悲で、盗人の仲間となり、皆、賄賂を喜び、贈り物を強要する。孤児の権利は守られず、やもめの訴えは取り上げられない」(23節)とあります。賄賂とか贈り物というのは、今日では政治献金とか同じ領収書を何度も使うという類です。それはもう盗みと同類項です。しかも孤児ややもめや弱い者、障害者や老人福祉への支出を減らす。大企業優遇の中でこれが行なわれるのは公平さを欠きます。

 2章7-9節には、「この国は銀と金とに満たされ、財宝には限りがない。この国は軍馬に満たされ、戦車には限りがない」とあります。金、銀、財宝など、豊かな私たちの国のことを言っているかのように聞こえます。軍馬や戦車は今日では何を指すでしょう。装甲車や戦闘機やミサイルでしょうか。そして、「人間が卑しめられ、人は誰も低くされる」と語ります。人の尊厳がだんだん弱められ、女は子を産む機械と言われ、「国は人のためにある」という憲法の精神を守るのでなく、「人が国のためにある」と国家への従属を語る、戦前の前近代的な考えに取り替えられようとしています。その他、3章4節、3章16節も今日の私たちの社会をあぶり出しています。

 イザヤは祭司として、神殿の真っ只中、イスラエルにおいては神殿は国の中心ですから国家の真っ只中において内部告発をしたのです。内部告発と言うときついでしょうか。彼は「地の塩」として、その社会の本来の味を取り戻すために発言するのです。それは告発のための告発ではありません。国のため、国民のため、神の栄光のために語ります。

 彼は自国を憎んでいるのではありません。これらの明快な言葉は、愛と相反するものではありません。国を愛し、その政(まつりごと)の大切さを知る故に、神の口となって語るのです。いや、彼は自ら名乗りを上げて預言者になったのではありません。

 それは神の選びでした。しかも、過酷とも言うべき神の選びでした。ですから6章5節で、「災いだ。わたしは滅ぼされる。私は汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者。しかも、わたしの目は、王なる万軍の主を仰ぎ見た」言ったのです。民は汚れています。しかし民だけでなく、自分自身も全く汚れている。そんな者が聖なる主を仰ぎ見たのですから、「私は滅びるばかりだ」と痛烈な罪責感を抱き、神を畏怖したのです。

 そうした中で預言者の選びを受け、彼は神を畏れつつ、神の口となって行かなければなりません。これほど苛酷なことはありません。

 イザヤの言葉を冷静に読むと分かりますが、神は礼拝や献げ物にうんざりしておられるのであって、イスラエルの民や人間に飽きたり、憎んだりしておられるわけではありません。そうは語っていません。

 だが1章2節以下で、「わたしは子らを育てて大きくした。しかし、彼らはわたしに背いた」と、神に背くイスラエルのことがすでに語られていますし、4節では、「災いだ。罪を犯す国、咎の重い民、悪を行なう者の子孫、堕落した子らは。彼らは主を捨て、イスラエルの聖なる方を侮り、背を向けた」と指摘されています。

 神は、その礼拝や献げ物にうんざりしておられるが、まだ人に対してそうではあられません。しかし、神が人間にもそうあるようになれば恐ろしいことです。ですから、イザヤはそうならないように、今、厳しい言葉で警告するのです。国を愛する故にそうするのです。

 このような「地の塩」となる預言者はあらゆる時代、あらゆる国、全ての組織に必要です。預言者が正当に用いられてこそその組織は健全に働きます。教会や教団も然りです。

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 では何故、神はイスラエルの礼拝に「耐ええない」と言われるのでしょうか。

 神殿の諸行事はカレンダー通り規則正しく、円滑に行われています。しかし、神にとって重要なことは、礼拝や行事の改善や工夫でなく、それを掌る人間が改革されることです。そこが本質問題です。

 日本においても、まさに人の問題です。色々な行政改革も必要かもしれませんが、それを行う大臣や政治家自身が改革されていないところに危機的状況があります。大臣になる時に改めて身体検査が必要だというところにすでに問題ですが、身体検査が腐敗を隠すために行なわれる所に問題があります。イザヤはそれを言うのです。

 1章15-17節は、「お前たちの血にまみれた手を、洗って清くせよ。悪い行いをわたしの目の前から取り除け。悪を行なうことをやめ、善を行うことを学び、裁きをどこまでも実行して、搾取する者を懲らし、孤児の権利を守り、やもめの訴えを弁護せよ」と語ります。

 今日はしつこい話し方になっていると思っているのですが、先週あんなことが起こらないなら、話はもう少しあっさりしていた筈です。ところが神様は、日本の現状とどこか符合する第1イザヤの厳しい預言を私に選ばせておられました。

 指導者たちは神を礼拝しています。しかし、それは形だけです。いや、百歩譲って、彼らは神に対してまごころをもって礼拝していると言いましょう。だが、彼らは神に仕えるだけで、人々や国民に仕えないのです。神とは言うが、己が腹を神にして、それに仕えているのです。神の言葉に砕かれていないのです。

 マルコ福音書を見ますと、イエスの時代、ファリサイ人や律法学者たちは、「これは神への献げ物・コルバンですと言えば、父や母に対して、何もしなくてもすむと言っていた」ようです。

 人間はおかしい錯覚をしばしば致します。隣人をほったらかしにして神を愛するのです。イエスは、「先ず、心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして主なるあなたの神を愛せよ」と言われ、次に、「第2はこれである。自分を愛するように、あなたの隣人を愛せよ」と言われた。だから、わたし達は先ず神を愛さなければならない。隣人愛は次の事柄である。ところで、自分はまだ十分神を愛していない。だから、それが出来てから、次に隣人を愛しますと言うのです。

 どこに書いていたか忘れましたが、ある教会に神を熱心に愛して大変尊敬を受けている婦人がいました。役員もして教会に熱心に奉仕もしていました。ところが家に帰ると、お嫁さんに対して大変厳しい姑さんであったようです。愛のそぶりもない。いや、冷たいのです。家柄もあり、厳しくお嫁さんを育てようということでしょうか。ところが教会では、皆に慕われ熱心に神を愛していました。

 パウロは、「愛の実践を伴う信仰こそ大切です」と言います。イザヤの時代、指導者の間で、国家レベルで起こっていたのはこのことです。神に仕えるが、人には仕えないということです。イザヤはそれを指摘するのです。
  (次に続く)
     2007年9月16日
                                 板橋大山教会   上垣 勝

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  (今日の写真は、カンタベリー大聖堂の正門の緑青をふくイエス像。門の向こうに大聖堂の一部が見える。)