全地に満ちる神の栄光(下)  詩編8篇2-10節


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 ところが、ダビデの神への賛美はそこで終わりません。続いて、「神に僅かに劣るものとして人を造り、なお、栄光と威光を冠としていただかせ、御手によって造られたものをすべて治めるように、その足元に置かれました。羊も牛も、野の獣も、空の鳥、海の魚、海路を渡るものも」と語ります。

 神は、これらの生き物を支配したり、略奪したり、滅ぼすために人間に任せられたのではありません。もしそのようなことをすれば必ず人間にはね返って、人の苦しみや滅びが待ち受けることになるでしょう。

 治め、世話し、守るために置かれたのです。神は人に愛の管理を委ねられたのであって、自然の横暴な主人になってそれを乱用するように命ぜられたのではありません。自然の主人は神であって、決して人ではありません。

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 さて、この詩編の中心のメッセージは何でしょうか。それはまさに今日の題の「全地に満ちる神の栄光」です。その威光への賛美です。その力強さを繰り返して確認するために、2節の言葉が10節でも繰り返されます。決して忘却してはならないことだからです。

 そして、全地に満ちる神の御名の力強さは、「幼子、乳飲み子によってたたえられている」と言うのです。逆に、戦いをする者、報復をし、神に逆らう者たちには神の御名は隠され、神ご自身がその人たちに立ち向かわれるとあります。

 イエスは、マタイ21章16節でこの箇所を引用されました。どういう時かというと、エルサレムにロバの子に乗って入場された時、子どもたちまでが「ダビデの子に、ホサナ」と叫んで歓迎しました。ところが、祭司長や律法学者たちは腹を立て、怒ったのです。その時に、イエスはこの言葉を引用して、「幼子や乳飲み子の口に、あなたは賛美を歌わせた」と語られたのです。

 子ども達が賛美しているのに、支配者たちは立腹している。それでも幼子はあどけなく、純真な思いで神様の栄光をたたえるのです。「裸の王様」のように、子ども達は本音を語ります。

 私は、孫娘から色々なことを教えられます。もし今も福井にいれば、こんなに数多くこの幼子が説教に登場せず、皆さんにご迷惑をおかけしなかったでしょう。

 暫く前、大山商店街を**ちゃんの手を引いて帰って来ましたら、急に私の手を振りほどいて、あるお店の方に行きました。どこに行くのかと見ましたら。不動産屋でした。「アレッ。不動産とかマンションに関心があるのか」と思いました。そんな訳がありません。1歳8ヶ月です。

 道路と店の入り口のところに段差があるので、鉄板が置かれています。その端のどこかを踏むとガタン、ゴトンと音がするんです。それで音が鳴るところを探してガタン、ゴトンと鳴らすのです。雑踏の騒音でかき消されますが、その小さい音を聞き分けて、また、ガタン、ゴトンと鳴らして楽しむんですね。音が鳴ると私のほうを見て満足げににっこり笑います。

 幼子は、神様が造られた自然とか、色々な現象を発見して心をときめかします。これは、神様の威光をほめたたえているとこだと言えないでしょうか。

 福音書はイエスのことを記して、「彼は傷ついた葦を折らず、くすぶる灯心を消さない」と書いています。

 神の力は、煙っている灯心を消さない力です。不安や心配や孤独を抱え、また明日のことを思い煩っている脆く弱い人たちを温かく励ます力です。神の力強さは、幼子、乳飲み子の口に賛美を歌わせる力強さです。権力を誇示し、報復や戦いに生きる人たちを辱めることにおいても力強く働きますが、弱い者を滅ぼさず、虐げられている者や、いと小さい者をいたわることにおいて力強く働きます。

 弱く、小さい存在を守られる力は、動植物にも自然環境にも注がれます。私たちが自然を温かく保護しなければならないのは、生きとし生けるものを治められる方が、私たちに治めることを委ねられたからです。自然保護は神に源を発しています。

 ダビデが民衆から慕われたのは、王座についた後も、生かし命あらしめ、弱く小さいものを顧みる全地に満ちる神の力をほめたたえ、権力を誇示しようとしなかったからでしょう。

 彼は他の詩編で、「戦車を誇る者もあり、馬を誇る者もあるが、我らは、我らの神、主のみ名を誇る」と語りました。また、神はいけにえを喜ばれず、「神の求めるいけにえは、打ち砕かれた魂。打ち砕かれた悔いた心を軽しめられない」と語って、ダビデは自ら、低い砕かれた心を大事にしたのです。

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 このように、神の栄光を力強く証ししたのがダビデですが、私たちはダビデですら知らなかった神の栄光を知っています。

 それは、ダビデの死後1千年、キリストの誕生によって現わされた栄光です。新約聖書はそのことを、「私たちは、その栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とによって満ちていた」と言い表わしました。イエスの誕生によって、神は栄光を力強く現わされたのです。

 更に、イエスは十字架につけられる日が迫った時、「私の栄光を受ける時が来た」と語られました。神の力強い栄光は、キリストの十字架においてひときわ明るく輝いたのです。それは、人間を極みまで愛する愛、私たちの罪を越えて愛する神の贖罪愛の啓示でした。

 神の力強さは、ただ愛のみをお与え下さるところにあります。この愛は、終りのない愛です。誰をも排除しない愛です。私たちをありのままに受け入れてくださる愛です。何者も制限しない愛です。そのような愛をお与え下さるところに、神の御名の輝きがあふれています。

 私たちはその愛にどう応えればいいのでしょう。また、人の賞賛を得ようとしないで、神の栄光を表わすために、どう生きればいいのでしょうか。

     2007年9月9日
                               板橋大山教会   上垣 勝

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  (今日の写真は、前回と同じキングス・チャペル。カレッジの構内から正門とチャペルを写しました。)