全地に満ちる神の栄光(上)  詩編8篇2-10節


                                (1)
 この詩は、ダビデの作であると書かれていますが、彼の晴れやかな、健康な気質がよく表れている詩のひとつです。

 「あなたの御名は、いかに力強く全地に満ちていることでしょう」、「天に輝くあなたの威光をたたえます」と言った表現。また満天の星を仰ぎ、神のみ業に感動させられながら、「そのあなたが、御心を留めてくださるとは、人間は何ものなのでしょう」と、輝く月、星を驚嘆をもって仰ぎながら、この広大無辺である宇宙空間にある自己と人間の、いかに微小な存在であるかを思わざるを得ないと歌うところにも、ダビデの信仰と人柄がにじみ出ています。

 羊飼いであった彼は、夜が深々と更け行く中で、天に散りばめられている無数の星々、星座が、時間と共に刻々と動き、季節と共に移動していく様を幾度眺めたことでしょう。アブラハムが、夜空を仰いで、あなたの子孫はあの星の数のようになるだろうという約束を与えられた意味を、ダビデは思い巡らしたかもしれません。

 ダビデは数々の戦いを経験し、人々のはかりごと、裏切り、容赦なく報復してくる敵などに遭遇しました。現実社会の厳しさ、罪深さ、また人の弱さを知り抜いた人です。しかし、それでも神を賛美することを忘れませんでした。いや、そうした中でこそ、神は賛美する価値がある方であると考えていました。

                                (2)
 「あなたの御名は、いかに力強く全地に満ちていることでしょう」とありました。「神の名」というのは、神ご自身であり、神の本質であり、その恵みの業全体を指します。

 神の業は、ダビデにとっては、微かであったり、目に見えぬ形でしか感じられなかったりというのでなく、「力強く」、明瞭に、世界にみなぎりあふれていると告白しているのです。

 確かに、神の御名はどこにも刻まれていません。刻まれていませんが、「満ちている」のです。その名は目に見えません。しかし、信仰の眼(まなこ)で見るなら、神の恵みの業で満ち溢れているのです。大自然の中にも、日常生活の中にも。

 自然は神の作品です。しかし、神はどんなものにも著作権を主張されません。そこに神の偉大さ、気前よさ、そして超越性も、全能性も、絶対的な主権も現われています。「星の王子様」のキー・フレーズのひとつは、人間にとって「大切なものは目に見えない」という言葉です。その目に見えないものを見る力が重要なのです。

 ダビデは、その見えないものを見て主をあがめた人物でした。

 今日、人工物が氾濫する中で自然志向の人が増えています。自然派が商品の売りにもなっています。近くの東武東上線に乗ると、平日でもリュックをもった人たちが、いかにも里山歩きに出かけるといった格好で乗っています。そのまま電車に委ねていると田舎の里山に行ける。それが東武線のいい所です。夢があります。山手線でぐるぐる廻っても、里山に行けますか。東横線里山に行けますか。ざま-見ろ、です。

 自然派志向とは、大自然という神の作品の中に心の安らぎを求めること、その中で癒しを与えられようとする人々、神の近くにいる人たちと言えます。

 しかし、その人たちに自然の作者にも出会って欲しいし、自然の作者であられる方、創造の神を知り、神と交わることによって、聖められ、高められ、洗練され、神を賛美するまでになっていただきたいと思います。

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 ダビデは次に、「天に輝く、あなたの威光をたたえます。幼子、乳飲み子の口によって」、「あなたの天を、あなたの指の業を、私は仰ぎます。月も星もあなたの配置なさったもの」と歌っています。

 「天」という言葉が繰り返されています。全天に瞬く星々は、重ならず、衝突せず、秩序をもって運行しています。まさに、「神が配置なさったもの」です。

 私たちの地球は、大変不思議に思いますが、頭上に輝く天の川の中にある一つの星だそうです。どうしてあんなに離れた所にある天の川・銀河系宇宙に私たちの地球があるのか、不思議でならないでしょう。詳しく申しませんが、それはこの銀河系宇宙は大きな円盤のような形の宇宙で、私たちはそれを内側から仰いでいるからです。その端から端までの直径は約10万光年。光は一秒間に地球を7回半廻ります。その光が一年間かかって進む距離が一光年ですから、その速さで10万年かかるのです。途方もない広さです。そこに2000億個の星々があると言われています。小惑星や月のような衛星を除いた数です。

 地球は太陽を中心にして廻っていますが、太陽を中心とした太陽系は、この銀河系宇宙の中心にあるのでなく端っこの方にあります。そしてこの太陽系自体が、この途方もなく巨大な銀河系宇宙を廻っています。一周するのに2億5千万年かかるのだそうです。気が遠くなります。ですから私たちの太陽が生まれてから、まだ18回しか廻っていないのです。

 しかも、銀河系宇宙のような宇宙が他にも沢山あって、全宇宙の中に1千億個以上の宇宙があるのだそうです。私たちの銀河系宇宙というのは、それら1千億個の宇宙の中では小さい方で、もっともっと巨大な宇宙が他に沢山あるのだそうです。こうなるともう宇宙はどうなっているのか、頭が混乱してきます。

 ダビデは、ただ目に見える星々を仰いで力強い神のみ業に圧倒されていますが、もし現代の天文学が発見している天体のことを知ったら、腰を抜かしてしまうのではないでしょうか。

 パスカルは、「この無限なる空間の永遠の沈黙が、私を恐れしめる」と言っていますが、さもありなんと思います。ダビデも驚愕し、恐れるかもしれません。

 さて、ダビデは天を仰ぐだけではありません。その極大の世界から目を転じて、「そのあなたが」、微小で塵のような人間に御心を留めて下さるとは、「人間は何ものなのですか」と問い、感嘆の声を上げるのです。

 人は土から生まれ、土に帰る存在です。人の命は全くはかないものです。いと小さく、いと脆いものです。青年時代の私は、決して自分は死なないのでないかと思っていました。だが、たとえ100年生きることができても、誰も120年は生きることは出来ません。自分がいなくなるということは実に不思議ですが厳然たる事実です。

 だが、人は脆く弱いだけではありません。そこからは悲観的な思いしか生まれません。厭世観が出て来るだけです。その脆く弱い存在に、天地万物を創り、治めておられる神が御心に留めてくださっているのです。ダビデはその方を仰ぎ、その方に信頼をおくのです。すると希望が出て来きます。

 聖書の語る老人福祉の言葉があります。イザヤ書46章4節をご覧下さい。「私は、あなたの老いる日まで、白髪になるまで、背負って行こう。」いかに悲しみがあり、不条理があっても、必ず負って下さるのです。

 イザヤ書は更に続いて、「私はあなたを造った。私が担い、背負い、救い出す」と語ります。背負うだけでなく、老いの向こうに救いを用意していて下さるのです。そこに希望の主が立っておられるのです。そこまで御心を留めて下さるのです。だから信仰を持つことは幸いなのです。
  (次回に続きます)

   2007年9月9日
                              板橋大山教会   上垣 勝

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  (今日の写真は、ケンブリッジ大学・キングス・カレッジ構内のキングス・チャペル。このチャペルの聖歌隊の歌声に一度ふれれば何度もその礼拝に通うことになるでしょう。それほど魅了されます。天井のヴォールト部、内部の座席、祭壇の絵、オルガンも有名で、それらに囲まれ、そこに座ってする礼拝は人生最高の至福の時です。)