よい羊飼いとは(下)   ヨハネによる福音書10章7-18節


                                (3)
 さて、羊飼いがするもう一つの事。一つに呼び集めるという事。あるいは、いろいろの群れを集めて一つの群れとして導くという事は、(そこには凝縮した素晴らしい意味が詰まっていますが)別の時に詳しくお話し申し上げることにして、今日はその一部をお話しします。

 イエスは十字架に磔(はりつけ)にされた時、まさに太い釘で釘付けにされて身動きできませんでした。手を曲げたり、引っ込めたりなど、何も出来ない状態になられました。「万事休す」とはこのことです。

 ところが、この何も出来ないという全く空気の流れすら止まってしまう状況に置かれながら、イエスは、自分を苦しめる人たちを敵視することを拒むことによって、全ての人たちを呼び集められたのです。敵を赦し、敵視することを拒否することによって、全ての人間を呼び集められたのです。

 私たちはもう何もできないと言う場面に立たされることがあります。手も足ももがれて何も出来ない状況です。イエスを思えば、それでもそこで何かが出来るのではないでしょうか。むしろ万事休する中で、それまで出来なかった事が出来るのかも知れません。神はそのようなところでも道を作って下さるのです。

 これから運動会シーズンです。イエスは、先生が合図の笛で子ども達を集めるように、十字架の上から全世界に向かって愛の笛を鳴らされるのです。ご自分の命を注ぎ出し、敵視する人も敵と見なさない愛の笛を吹かれたのです。それを、全世界に向かって、歴史の後々の人たちに向かってまで、今日と、将来の人々に向かってまで吹かれたのです。

 どんなに神から遠く離れ、救いから隔たった所まで行ってしまった人も、孤独な場所で一人悲しみを抱える人も、一人も滅びないで救われるためです。

 イエスが「羊の門」であり、救いの門であるとはこういう意味です。群れを集めて大きな群れになさるのは、十字架の出来事、罪の赦し、復活による新しい希望以外によってではありません。そこにおいて、世界のキリスト教会はひとつの群れになるのです。

                                (4)
 11節、12節には、「私はよい羊飼いである。よい羊飼いは羊のために命を捨てる。羊飼いでなく、自分の羊をもたない雇い人は、狼が来ると、羊を置き去りにして逃げる。狼は羊を奪い、追い散らす」とありました。

 羊飼いは集めます。雇い人は危険が迫ると逃げます。狼は群れを襲い、滅ぼし、散らします。

 私たちは、まだ解決されていない心の傷がある場合があります。屈辱を痛く受け、その苦痛が取れないこともあります。また、憎しみや激しい敵意が払拭されない場合もあります。いわゆるトラウマが根本的に癒されることがないなら、何かが起こるとキバをむき出し、狼のようになって人を襲います。自分の中にもそういう蔭がある気がします。

 長く生きていると感心することが色々あります。どうすればそんなに心臓が強くなるのかと思ったりします。ある地方の大教会で、何年間も牧師が責められたのです。その牧師は夫婦で牧師をしている教会です。色々のことがあったようです。するとある年の教会総会で、妻の牧師が立ち上がって、何と、私は言葉にすることも憚(はばか)られますが、「ケツまくります」と、毒づいたと言うのです。牧師不足で、自分達より優れた牧師は来ないという含みがあるのでしょうか。

 私などは気が弱いですから、そんなことを吐いたらもう教会の人の前に立てないでしょう。外出も出来なくなるに違いありません。心臓の強い人は違うなあと、私はつくづく感心します。

 しかし、本当にそれでいいのかと思います。それでキリストの体なる教会が創られるのでしょうか。牧師というのは、永遠の副牧師です。キリストに仕える副牧師です。自分は頂点にいるなんて思っちゃあいけない。絶えずキリストに養われ、キリストに正され、導かれなければならないのです。

 毒がまだ解決されていない。キバが抜かれていない。牧師が狼になって襲う。そういうことが起こるのです。狼は引き裂き、滅ぼし、散らし、雇い人は逃げます。

 しかし、イエス様は逃げられません。最も激しい、厳しい緊張の中でもそこに留まり続けられたのです。「肉体を滅ぼしても、魂を滅ぼすことの出来ない者どもを恐れるな」とは、自らに言い聞かされた言葉です。

 ボンヘッファーという人は、「イエス・キリストは敵のただ中で生活された。最後には、弟子たちも皆、イエスを捨てて逃げてしまった。十字架の上で、悪人や嘲笑者に取り巻かれて、全く一人であられた。彼は、神の敵たちに平和をもたらすために来られたのである。だから、キリスト者修道院の孤独な生活へと隠遁することなく、敵のただ中にあって生活するのである」と書いています。

 敵の只中に入って行くことを選べということではないでしょう。自分を苦しめるのを喜んでいるのではありません。イエスは、自虐的ではあられません。「敵たちにも、平和をもたらすために来られた」のです。イエスは平和の主であり、平和をもたらすことに重点があります。

 先週も紹介しましたが、エフェソ書は、「彼は、敵意を十字架につけて滅ぼし、平和を創り出された」と語っています。敵意を十字架につけ、平和を創るというのは大変なことです。それをされました。古い世界を滅ぼし、新しい世界を創り出されました。暴力的な力で敵意を滅ぼすのでなく、虐待する人たちを愛し、赦す力によってそれをされたのです。

 平和を創り出すにはリスクが伴います。誤解されるかも知れません。下心があるのかと疑われるかも知れません。だが、イエスが、単純素朴に父なる神のためにそうして行かれたように、私たちも敵対心を煽る人たちがいる中で、和解のために、平和を創り出すために、そこにしっかり留まって生きる。逃げないことが必要ではないでしょうか。

 意見が違えばもう分裂。対立。口も聞かないというのは、古い世界です。それがあちこちに満ちています。イエスは新しい世界を創られたのです。そこでは、違いがあるからこそ対話を創り出すのです。相手の言葉に静かに耳を傾けるのです。相手も神に生かされている存在であると見る故に大切にするのです。

 私たちはよい羊飼いではなく、羊に過ぎません。だが、イエスが創り出された平和に生きようとする時、私たちもよい羊飼いの働きに与るのではないでしょうか。

 「よい羊飼い」。「よい」という言葉は、ギリシャ語で「カロス」と言います。その意味は、1)美しい、麗しいと言う意味です。しかし、2)優れた、優秀なという意味もあります。それから、3)気高い、高貴な、誉れ高い、という意味も含まれます。

 キリストは気高く、高貴な羊飼いです。シャロンのバラ、よき香りとも歌われます。その方が、弟子達の足を洗い、ハンセン病の人を抱きしめて慈しみ、貧しい人たちを友とし、虐げられた人たちを愛し、ゲラサの狂人を救い、最後には十字架の上まで上がって強盗をも救って息を引き取られました。

 その気高い愛の笛の音(ね)は、今日も世界の隅々まで響きわたり、十字架の上からの平和の福音が人々に届けられているのです。よい羊飼いの角笛が聞こえないでしょうか。

       2007年9月2日
                                 板橋大山教会   上垣 勝

  ホームページはこちらです:http://www.geocities.jp/itabashioyama_ch/
 
 (今日の写真は、カンタベリー大聖堂。ロンドンのウエストミンスターより格が高いようです。夕べの礼拝で聖歌隊が格別な美しさで歌いました。後方からの写真です。)