よい羊飼いとは(上)   ヨハネによる福音書10章7-18節


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 旧約聖書でも新約聖書でも、あちこちに羊飼いと羊の話が出てきます。有名なものでは、詩編23篇の「主は、私の羊飼い」があります。新約では「迷いでた一匹の羊」の譬(たと)えが有名です。今日の箇所は、イエス様がよい羊飼いに譬えられています。

 羊飼いは二つの仕事を持っています。一つは羊たちの世話をすることであり、もう一つは羊たちを一つに呼び集めて導くことです。

 幼稚園の先生もそうですね。先生は小さい園児の一人ひとりを世話します。2、3才児は、入園当初、玄関で挨拶も出来ません。履物を靴箱に入れて上履きに替えることも、自分の部屋がなかなか覚えられない子もあります。勿論まだ友だちと上手に遊べません。

 先生は、お便所の使い方とか、みんなで食事をする仕方も、ずっとついて優しいお母さんのように、時にはお母さんよりも優しく、本当ですよ、丁寧に教えて、まさに世話をします。

 お母さんが出来ないこともします。それは、10数人とか、時には30人程を一つに呼び集めて並ばせたり、園外保育に連れ出し、信号を渡らせたり、踏切を渡らせたりもします。そんな沢山の子どもを集めて導くは、普通のお母さんならパニクッてしまうでしょう。しかし、幼稚園の先生たちはその技術を持っています。

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 今日の聖書は、イエス様が羊飼いに譬えられ、7節には、「はっきり言っておく。私は羊の門である」と言われたとあります。「門」は出入りする場所です。羊たちは、朝にはその門を通って導き出されて牧草地に導かれます。牧草に導かれるのは、育てられて「命を豊かに受けるため」です。イエスという「門」を通って人々は救われると、9節には記されています。

 イエス・キリストは、一人ひとりが、また一人ひとりの命が豊かに育てられて、その命が十分発揮されるようにケアーをされます。3節を見ますと、「羊飼いは、自分の羊の名を呼んで連れ出す」とありますが、イエスは私たち一人ひとりの名を呼んでくださるのです。

 先ほど幼稚園の先生の話をしましたが、どうして子ども達をまとめて園外保育に連れて行けるのか。その鍵のひとつは、先生はクラスの子たちの名前をすべて覚えているからです。名前を知っているから、「Aちゃん、Bちゃんの後ろに並びましょう」とか、「Cちゃん、Dちゃんにいたずらをしてはいけません」と言うと、子どもは聞くのです。名を呼ぶことは重要です。

 入園当日から、クラスの先生と園長先生は全ての子たちの名前と顔を覚えていなければなりません。前の教会では、園長をしていた妻は、100人近くの子ども達とお母さんの名前と顔を全て知っていました。地方に行くと時々250人とか300人の幼稚園がありますが、園長は子どもの名前もお母さんの名前も殆ど知りません。

 しかし、幼稚園というのは子どもを保育しますが、子どもをしっかり保育するためには父兄の教育が大事です。しかし子どもの名前も知らないのでは、人格教育は出来ませんし、その家庭の背景を知らなければ十分アドバイスできません。キリスト教保育というのは、人格教育なのです。そのためには人格的な関わりをしなければなりません。その第一歩は子どもの名前を覚えることです。

 保育のお話をしているのではありませんからこれで置きますが、イエスは私たち一人ひとりの名を呼んでくださる方です。名を呼ぶということは、その人を大事に扱っているということです。その人のことを意識して心に留め、愛しているということです。

 私はもう年ですね。時々皆さんの名前が出てきません。しかし、すっごく大事に思っているんですよ。非常に大事に思っているので、お名前が出てこない時もよろしくお願いします。冗談はさておき、私は皆さんの名前をあげてお祈りさせていただいています。教会員の方もそうですが、最近来られた方や、求道中の方もお名前をあげて祈らせていただいています。

 3節,4節のところには、羊飼いは羊の名を呼んで、呼び終わると連れ出して先頭に立って行くとあります。「呼び終わると」と言いましたが、一人も抜かしません。

 イエスも、わたし達を一人も抜かさず、飛ばされません。社会保険庁は抜かしたから今大変なことになっているわけでしょう。飛ばされちゃあ、被保険者はたまったものではありません。イエス様は、一人も抜かさないだけでなく、どこかに迷い出た者も探し出して連れて行かれます。

 この辺も幼稚園と殆ど同じです。「お出かけだよ」というと、中に、隠れる子どもがいます。カーテンの中などに。先生の気を惹くためでしょう。自分も覚えられているかと、先生を試しているんでしょうか。

 暫く前に、保育園のバスの中に置き去りにされて熱中症で死んだ子がありました。恐ろしいことです。バスでお出かけしたりすれば、降りるとき必ず子どもの名を呼んで、すべて降りたか確かめるんです。後ろの座席で眠っている子が時々あります。名前を飛ばさず呼ぶか、必ず後ろの座席まで行って確かめなければなりません。

 ところで、人生で迷い出した人はどうすればいいのでしょう。

 先日、講壇交換で行った教会で、礼拝が終わって求道者会に出て下さいと言われて出ました。すると私の座席が決まっていて、左隣に20歳代の若い青年が座っていました。見ると、両手の手首の所から肩まで全面刺青をしていました。恐らく体全身、足首まで刺青をしているんでないかと思いました。しかし、何かのきっかけがあったのか、進んで礼拝に出ている様子で、嬉しいことでした。

 迷い出た人を、キリストは罰されません。刺青は一生消えないでしょう。だが、キリストは、一生消えないものを持ってしまった迷い出した者でも、迷い出したままに、迷い出したことも必ず益に変えて下さる方です。

 パウロがそうでした。彼は殺人を犯した人間です。しかも教会を迫害しキリスト者を殺していたわけです。ステファノの処刑にも携わりました。それは一生消えない傷です。だがその傷を持って彼はキリストに用いられて行きます。

 人殺しの傷、罪の生傷を持って、彼はキリストの恵みを、赦しを、十字架の憐れみを言葉を尽くし、行動を通して語って行きます。その傷口から、キリストの恵みがいつも痛いほどに注がれて、彼はキリストの復活を、甦りを、希望を語ったのです。

 イエス様は、根本的には迷い出た者を探し出し、救い出すために世に来られた方です。そして一匹の迷い出た羊のたとえのように、「出来ることをすべて」なされました。

 出来ることとは、ゲッセマネの園で血の汗をたらして祈り、「杯が取られないのなら、神の御心がなりますように」と祈り、遂に十字架について下さったようなことです。

 今日の18節をご覧下さい。「誰も私から命を奪い取ることは出来ない。私はそれを自分で捨てる」とあります。人々はイエスを十字架につけますが、イエスは自ら進んでつかれたのです。人々は命を奪おうとしましたが、イエスは自分でそれを捨てられたのです。そこまで、人の救いのために、迷い出た者が一人も滅びないように、「出来ることをすべて」されたのです。

 聖書は更に、日本キリスト教団信仰告白もそうですが、イエスは死者の国、黄泉に降ったと述べています。地獄に落ちた者にも光を照らすために、そこまで降って下さったのです。これ以上に、救いのためになしうる事が何かあるでしょうか。イエスにおいて救いは完結している、完成しているのです。そこまで、「出来ることをすべて」して下さったのです。
  (次回に続く)

         2007年9月2日
                                板橋大山教会   上垣 勝

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  (今日の写真は、カンタベリー・スチュアー川の牧草地に遊ぶ羊の群れ。向こうの丘の辺りにロンドンからカンタベリーに続く数百キロの巡礼の古道があります。ここケント州は英国の庭園と呼ばれ、湖水地方に劣らない美しい地方です。)