目に見えるキリストの姿  使徒言行録2章29-42節


                             (1)
 イエスの復活から丁度50日目に、エルサレムで集まっていた弟子たちの上に不思議なことが突然起りました。

 激しい風のような音が弟子たちの隠れ家全体に響きわたり、一人ひとりに炎のようなものが分かれて留まったかと思うと、一同は復活のキリストの霊に満たされ、霊が語らせるままに色々な外国語で神の真理を語り出したのです。しかも道行く人たちにも分かる程の声で語り出したのです。もちろん大勢の野次馬がこの隠れ家に集まって来ました。

 こんなことってあるんでしょうか。私も暫く外国にいましたが、中々しゃべれませんでしたよ。語学学校の授業では隣に座った人としゃべらされる場合が頻繁にあるんです。しゃべれないと、隣の人は向こう隣の人に向き直って3人でしゃべり出すわけです。そのときの切ない気持、屈辱感ってないですよ。次の時間は、もう私を避けて両隣に人がいないんです。本当にしゃべれるようになるまでは辛かったです。

 ところで、ユダヤ人たちは、隠れ家から大胆に姿を現し確信を持って語り出したイエスの弟子たちを見て、大変驚いた筈です。その唇には和解の言葉がありましたし、自分たちの人生観を一変させた事柄を、復活のキリストとの出会いによって変えられた事柄を、平和と赦しの心をもって人々に分かち合おうとしているからです。

                              (2)
 皆さん、ペトロはこの説教で、怒っているんでしょうか、イエスを十字架につけたユダヤ人たちを裁いているんでしょうか。「あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主として、またメシアとなさったのです」とは、ユダヤ人たちへの責任追及の言葉でしょうか。

 「神はイエスを主としメシアとされたのに、あなたがたは十字架につけて殺した」となじったのでのでなく、「あなた方が十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、メシアとされた」と言って、神の経綸の深さを指摘したのです。

 ペトロは責めたのではないのです。平和と赦しをもって語っているのです。「あなたがたが十字架につけて殺したイエスは、神が定められたキリストである。メシアである。イエスが死に支配されたままでおられることはない。あなたがたはメシアを十字架に磔にして殺してしまった。だが、心を翻し、悔い改めて、キリストの名によって洗礼を受けるなら、あなたがたの罪も赦されるでしょう。」こう言って赦し、悔い改めを語ったのです。

 「神の偉大な業」(2章11節)を語ったのであって、責めたのではありません。

 聖書の言葉を、人を責めるために使う人がいます。聖書を読んでいると、人の顔が浮かぶんです。それで、この言葉をあいつに言ってやろうとか、今度何かあればこの人に語ってやろうとか、色々考えが浮かぶわけです。それは責めるためです。しかしペトロのように「神の偉大な業」を語らなければなりません。それは大いに語ればいい。

 だからこそ、人々は「大いに心を打たれ」ペトロと他の使徒たちに、「私たちはどうしたらいいのですか」と、救われる道を尋ねたのです。神の愛が迫って来るのを感じて、強く心を動かされ、救いの道を求め始めたのです。やがて彼らに、神に対する「畏敬の念」(43節)が生じたのは、神とキリストの寛大な赦しの愛をそこに見たからです。

 それにしても、ペトロは、どうしてイエスを十字架で処刑した人たちも罪の赦しが与えられるなどということを語ることができたのでしょうか。余りにも大胆すぎるのではないでしょうか。憎しみをもって処刑した人たちに罪の赦しを語ることが許されるのなら、どんな悪事を犯した人も、失敗を仕出かした人も赦されるのではないでしょうか。

 それは、ペトロが人々の前でイエスの弟子であることを3度も否定したのに、キリストはそれを責めず、赦して下さったからです。3度にわたって「私を愛するか」と問うて、弱さのために裏切ったペトロを憐れみ、もう一度帰ってくるチャンスをお与え下った経験をしたからです。その赦しの愛を強く感じたペトロは、ユダヤ人たちに神の赦しと神のもとへ帰って来ることを呼びかけたのです。

 皆さん、和解する心を持って語って下さいね。突っかかるような気持で語っちゃ、うまく行くこともダメになりますよ。身近な人にはつい言葉が辛らつになったり、揚げ足を取ったりしがちです。特に家族に対してそうです。私の家でも、何卒よろしくお願いいたします。こちらが先ず改めねばなりませんがね…。

 それに、イエスは十字架につけた人々を裁かれませんでした。「なぜ十字架につけるのか」とも、「バカヤロー」とも言っておられません。言っておられますか?「彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」と言って、彼らのために執り成されました。

 パウロは、「敵意を十字架につけ、平和をつくり出された」と表現しています。凄いことです。敵意というトゲを抜くのは一番難しい。それをされたのです。

 そして、敵意のトゲを抜くこのイエスの姿が、ペトロが和解する心で語ろうとしたもうひとつの原因です。

 先程の交読詩編145篇には、大いなる主、大いなるみ業、絶えることのない神が語られ、「主は恵みに富み、憐れみ深く、忍耐強く、慈しみに満ちておられます。主は、全てのものに恵みを与え、造られた全てのものを憐れんでくださいます」とあり、「あなたの主権はとこしえの主権」とありました。

 そのような神の愛の広さ、恵み深さ、憐れみの豊かさ、即ち「神の偉大な業」を、ペトロの説教を通してユダヤ人たちは感じて、強く心打たれ、洗礼を受けるにいたったのでしょう。その日、洗礼を受けた人は、3000人もあったとあります。

 教会は、神とキリストの赦しの上に成り立っていったのです。

                              (3)
 聖霊が降り、復活のキリストの霊に出会った時、弟子たちは将来に対する何の計画も持っていませんでした。彼らは挫折し、心は空虚で、計画どころではありません。しかしまた、キリストの霊に押し出されることに何ら後悔もしません。それで大胆にキリストの復活を証しし、「復活の証人」(32節)になって、神の赦しを宣べ伝えて行ったのです。

 復活のキリストが彼らに訪れ、主の霊に満たされた彼らは、ユダヤ人たちの眼には、酒に酔っているように映ったと書かれ、皆、驚き戸惑ったと書かれていますが、弟子たちは神とキリストのリアリティに満たされたのですから、嬉しさと感動と喜びにあふれたのですから、当然かもしれません。ましてや、恐れと絶望に沈んでいた彼らが、見違える姿になって登場したわけですから、あっけに取られたのは当然です。

 「神の偉大な業」への感動。それが教会の誕生する原動力です。それが、初代教会が次々生まれていく原点です。

 そして復活のキリストの霊に満たされて、弟子たちは多様な言語で語り出したこの事件は、あらゆる形の隔ての壁を越える、新しい交わりをつくり出す創造性の源になって行きました。

 神が、人の隔ての壁を越えて行かれるのです。国境も、民族も、言語も、肌の色の違いも越えて、多彩な者たちを神の偉大な真理の中に豊かに招きいれて下さる。―その最初の出来事がここに起こったのです。弟子たちは何も計画していませんでしたが、聖霊に満たされて、驚くほど多様な働きへと向かって行ったのです。

 何回か紹介しているヘンリー・ナウエンという人は、ハーバード大学の教授を辞してラルシュという知的障害者のホームで働くようになった方ですが、イエール大学以来の2人の親友のことを書いています。

 彼らは、「彼らの仕方で神に近づく霊的な旅に深く関わって来た」というのです。2人は、徴兵拒否と長い刑務所生活を繰り返したために、深い傷を受けている人たちです。今は、一人はカトリック系の労働者施設で働き、他は精神分析医のソーシャルワーカーとして働いています。

 彼らは、ベトナム戦争と当時広まった核戦争の恐怖に深刻な影響を受け、今なお、これらの問題は根本的には解決されていないと言って訴え続けています。

 ナウエンさんは、彼らと全く同意見を持っているわけではありません。同意見でないが、何十年と続く親友です。彼らの戦争反対運動や激しい証言に畏敬の念を持っています。彼らは運動が広がっても広がらなくても、予言し、政治家の改心を訴え続けています。彼らは軍備競争に抗議行動を続けなければ、心に平安が得られないのです。ナウエンさんは、彼らの行動に全くの同意とはいえないので、自問し続けています。

 しかし、はっきりしていることが一つある。それは、「私は、神への旅を続けるこの二人の友のそばにいたいということ。そして、特に彼らが世の中から見放される時代だからこそ、彼らとの友情を深めたいということである」、と書いています。

 意見が違えばもう分裂。そういうことではない。違いがあるからこそ対話が生まれ、彼らも神に生かされる存在と見る故に大切にする。そういうキリスト者たちの豊かな多様性を生み出したのは、キリストの霊です。国も、民族も、言語も…越えて行く復活のキリストの霊、聖霊の働きなのです。それが教会を教会たらしめているのです。

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 弟子たちは、神様から受けたものを自分の内に留めておきませんでした。当時の教会は聖霊を人間のワクに閉じ込めなかったのです。だから、彼らの思いにました宣教が出来て行ったのです。遠くローマ帝国全体に、そしてその帝国のワクも越えて行くことができたのです。何と偉大な神の業でしょうか。

 「この約束は、あなた方にも、あなたがたの子どもにも、遠くにいる全ての人にも、誰にも与えられる。」そういう大きな広がりを持って、キリスト教会は広がって行ったのです。繰り返して言いますが、神の聖霊にワクを嵌めず、キリストの復活の霊に率直に従ったからです。

 今日は、「教会は目に見えるキリストの姿である」というような題です。無論、実際の教会の建物がキリストの姿でないのは当然です。しかし、「教会は目に見えるキリストの姿である」と言い得るとすれば、教会の交わりの中にキリストの活きた姿があると言えるかもしれません。

 そのような教会は、赦しの上に建てられた教会です。「御子の血によって贖いとられた神の教会」です。多様な者たちが受け入れられて、主によって一つになっている教会です。意見が違っても、意見が違う故に涼しい響き合いが生まれる教会です。

 意見が違っても「夫婦は一つ」なのではないでしょうか。一方の意見で他方を排除しないのが「夫婦」のうまく行く秘訣です。教会が「夫と妻」に譬えられ、「夫と妻」の関係がキリストと教会に譬えられるのは、そこに深い意味があるからです。

 和解の言葉、和解の心をもって、誰に対しても向かう教会。人と人との間に和解をつくり出す教会。そこに見えるキリストの姿が、一瞬垣間見えるのではないでしょうか。

 隔ての壁はどこにも存在します。しかし、イエスは弟子たちを派遣する時に、あなたがたはどの家に行っても、その家に入ったら、「平和がありますように」と挨拶しなさいと言われました。私たちは今週、どの人と会うにしても、「平和がありますように」と語る心で、出会っていきましょう。

       2007年8月26日
                    板橋大山教会   上垣 勝

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 (今日の写真は、ドイツに遣わされた日本人宣教師のMさん。)