「高価な真珠」 マタイ13章45-46節



 最初に、聖書を幾つか読ませていただきます。
 ・マタイ13章45-46節 (省略) 
 ・詩編37篇23-24節 「主は人の一歩一歩を定め、御旨にかなう道を備えてくださる。人は倒れても、打ち捨てられるのではない。主がその手をとらえていてくださる」             
 ・イザヤ43章4-5節 「私の目にあなたは値高く、貴く、私はあなたを愛する。……恐れるな。私はあなたと共にいる。」

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 昨夜、前夜式でAさんのことについて、また16年前に47歳の若さでなくなられた奥様のBさんについて、また祖父母のSさんとTさんについて、また**家に残された大いなる遺産についてお話させていただきました。

 従って、今日は故人に関することはお話をしないで、聖書の話をさせていただきます。昨日のことからお分かりのように、それが**家にとって一番望ましいことだと思うからです。

 先程の聖書に、神の国についての譬えというのが出て来ました。そこに、「神の国は、商人が良い真珠を探しているようなものである。高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行き、持ち物をすっかり売り払ってそれを買う」というような話が書かれていました。

 この高価な真珠とは何でしょうか。色々に考えられます。今日は、私は、「真珠とは私たち自身だ」と考えて、ここを読んで見たいと思います。

 それは、私たちはそれぞれが、またとない、いや、世界中でたった一つの真珠だと言っていいからです。個性も、考えも、DNAも違います。世界的には民族も言語も、習慣も違います。どの真珠とも比べることが出来ない、値高く、貴い、高価な真珠です。その真珠を失ったら、またダメにしたら、どんなにしても買い戻すことはできません。取替えはききません。

 「高価な真珠一つを見つけると」とありましたが、皆さん、お一人、お一人は、その真珠の一つ一つでいらっしゃいます。どんなに欲張りな人でもこの真珠を二つは持つことができません。ただ一つのみです。

 しかし、そのたった一つの真珠に、掛け替えのない貴さが隠されているのです。そのかけがえない貴さを見つけない限り、それはつまらない真珠、いや道端に転がっているつまらない石ころのように思われます。しかし聖書は、自分をどのように考えている人に対しても、「あなたは高価な、たった一つの良い真珠である」と語るのです。たとえ一時的にかりそめの過ちを犯した人に対しても、また償いようのない過ちを犯した人に対してもです。

 そういう人でも、自分が高価な真珠であることが分かり、それを買うならば、即ち自分を買い戻すなら、あるいは自分に残された人生に賭けて行くなら、高価さを現わして行くことでしょう。

 それが先ほど読みました、「私の目に、あなたは値高く、貴く、私はあなたを愛する。……恐れるな。私はあなたと共にいる」という言葉の意味です。

 私たち一人ひとりは、「私」即ち神様の目、キリストの眼から見るなら、値高く、こよなく貴いのです。なぜなら、神があなたを愛されるからです。誰が軽んじても、否定しても、侮辱したとしても、神はあなたを値高く、貴いとされるのです。神はあなたを、高価な、たった一つの掛け替えのない良い真珠だと主張されるのです。神は、そのひとり子を下さったほどに、私たち一人ひとりを愛されたからです。「下さった」とは、クリスマスのことだけを意味しているのではありません。そのひとり子を、たとえ十字架につけることになっても私たちを愛し抜くことをされたという意味です。

 私に対するキリストの十字架の意味が分かれば分かるほど、私たちは自分が「高価な、またとない、貴い真珠」であることが分かってきます。

 私は今、こう申し上げていますのは、66年のご生涯を終えられたAさんの告別式に当たり、そのご生涯をご一緒に昨晩から振り返らせて頂く中で、Aさんは私たちに、「自分の一生を大切にしてください」と語られているように感じるからであります。ですからご容赦下さり、Aさんが、今私がお話していることを私に語らしめているとお考えてお聞き下さい。

 若い人は、夢を大きく持たなくてはなりません。「夢を失った民は滅びる」という言葉がありますが、個人も同じです。たとえ肉体は生物として活発に活動していても、すでに魂の中身を失いつつあります。

 夢を大きく持つということは、チャレンジをすることでしょう。死ねば、チャレンジしようしても不可能です。失敗を恐れず、チャレンジし、チャレンジし、チャレンジして行く。それ程、私たちは貴く、高価な存在です。

 しかしまた、不遇に負けてはいけません。試練、逆境に負けてはなりません。ピンチに強い人になって下さい。ピンチの強さは一球一球、焦らず、慌てず、丁寧に投げることから生まれます。ピンチの時、どうしのぎ、どう立ち向かうかで人生の道は左右されて行きます。昨日申しましたのとは別の意味ですが、ピンチもひとつの転轍機となります。

 先程の聖書に、「主は、人の一歩一歩を定め、御旨にかなう道を備えて下さる」とありました。更に「人は倒れても、打ち捨てられるのではない。主がその手をとらえて下さる」とありました。

 「倒れても打ち捨てられるのではない。」信仰に生きるとき、倒れたことが肥やしにもなります。逆境に負けないなら、逆境も肥やしになります。不遇な時こそ、人の思想が深められる時です。人間として形成される時です。神様は、無駄に試練を与えられません。

 しかし、人生にある程度、成功した人たちには、誘惑がしばしば訪れます。成功で傲りが生まれているからでしょうか。甘さに誘惑が忍び込むのでしょうか。スキがどこかにあるからでしょうか。功名心と共に、自ら誘惑に乗る思いがあるからでしょうか。肉の弱さのためでしょうか。こっそり、見つからないように、楽しみたいからでしょうか。成功した人は、くれぐれも用心しなければなりません。成功こそ、没落の始まりになりかねません。

 「主は人の一歩一歩を定め、御旨にかなう道を備えて下さる」と言うのです。

 一歩一歩が大事です。一歩一歩にその人の人となり、その人格が現われています。一歩一歩どう生き、どう表現するかに、その小さな一歩に、その人の貴さ、価値が現われます。人生は、その一歩一歩の積み上げであり、この一歩がなければ、次の百歩も千歩も、全人生もありません。

 最後にもう一度、先程の聖書が私たちに語っていることに耳を傾け、味わいましょう。「私の目にあなたは値高く、貴く、私はあなたを愛する。……恐れるな。私はあなたと共にいる。」(イザヤ43章4-5節)

 人生に恐れを抱く必要はありません。死に対しても恐れる必要はありません。雄々しく、顔を輝かして生きましょう。神があなたと共におられるからです。私たちの神は、生きている時も、死ぬ時も、死の向こう側においても、私たちの神であるからです。

 ご遺族の皆様とお集まりの全ての方々に、神様の祝福をお祈りいたします。
 (ある葬儀での短いメッセージ)

     2007年8月27日 
                板橋大山教会   上垣 勝

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  (今日の写真は、ストラスブールの街並みと街を取り囲む運河。ドイツと接するフランスの世界遺産の街。)