君には新しい霊が必要だ(下)  エゼキエル36:25-28


 (前回から続きます)
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 神は、彼らに新しい心、「新しい霊を置く」とあります。私たち人間がそういう霊を置くのでも創り出すのでもありません。人が努力しても新しい霊にはなりません。人間が創りだすものは似て非なるものです。贋物の臭いがします。清さがありません。

 しかし、神は聖なる霊を私たちの中に置いて下さるのです。

 やがてこれは新約聖書ヨハネ14章で、コンテキストはやや違いますが、「私を愛する人は、私の言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父と私とはその人の所に行き、一緒に住む」とあることに関係して行きます。神ご自身が、キリストご自身が私たちの中に自らをお置きくださるのです。

 言葉を代えて言えば、神の息である神の霊は内側に入って私たちを新しくし、私たちの信仰生活の根本の所に新しい信仰の力を授けて、神の御心に従うことができるように、そうすることが喜びとなり、感謝となるようにしてくださるのです。

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 長く述べて来ましたが、神の新しい約束は赦しに基づくものです。そして神の約束は決して覆されません。何年たとうが、何百年たとうが、必ず成就していきます。こうしてエゼキエルの預言はイエス・キリストにおいて実現して行ったのです。

 キリストの十字架と復活において、自分自身の醜い目をつぶりたくなる過去はぬぐい去られます。神は赦すことによって石の心を取り除かれます。単なる赦しでなく、罪を引っかぶって、人の罪をご自分の責任として引っかぶって、罪赦されざる者をも極みまで愛することによって、新しい心をお与えくださるのです。十字架の血によって贖いとられないなら過去の罪から解き放たれることはありませし、人を裁き、告発する思いからも自由になることはありません。

 だが、キリストがひとたび罪を贖って下さるなら、私たちは良心の呵責から解き放たれ、罪意識からも、また仕返しや復讐心という自分への固執からも自由にされ、「誰でもキリストにある者は、見よ、すべてが新しくなった」ということが起るのです。行き詰まり状態から解かれて行くのです。私たちがそうするのではありません。心理学的な心の操作でそうなるのでもありません。

 小さい子どもたちがケンカしても、翌日は、きのうケンカなどなかったかのように新しい一日を始めています。大人ならそうは行きません。神様は子どもらにそういう心をインプットしておられるのでしょう。そして大人の場合、キリストにある時に、そういう新しい一歩を始めることが可能になるのです。そうすることは恥ではありません。

 命の源であるお方に接し、信仰によってこのお方につながって行く時、他罰的なまた自罰的な、人を傷つけたり、自分自身を傷つけたり罰したりする心も変えられて行きます。

 仏教で、「餓鬼」という地獄に落ちた亡者が出てきます。私は、高校時代、「飢えた餓鬼」とあだ名をされました。餓鬼といえば十分なのですが、その上に形容詞までついて「上垣=飢え餓鬼」なのです。結婚した時、相手の苗字に鞍替えして置けばよかったのでしょうか。

 地獄の餓鬼は、やせ細って、喉が焼けただれて細くなって、飲み込むのも食べるのもできない、常に飢え渇いている亡者のことだそうです。

 餓鬼の正体は、自分自身と和解できない存在です。「瞬時も自分に満足できない」のです。また「過去の解決できない欲求不満ばかり持ち続けている存在です。」自分は十分愛されなかったとか、厳しくされ過ぎたとか、被害者意識を持ち続けている存在です。しかも「この状況から完全に開放されたいという悪夢に取りつかれて」、その幻想に生きて永遠に精神的飢餓を続けて行くのです。

 だが、キリストは餓鬼のような心、精神的な飢餓状態にある人に対しても、その精神的な飢餓状態である餓鬼的な石の心を取り除いて、柔らかな肉の心をお与え下さるのです。キリストにおいては幻想でないのです。そして、自分を傷つけることからも、他者を裁くことからも解き放って下さるのです。

 「新しい霊」とは、自罰的でも他罰的でもない健全な霊です。自分を育て、他をも育てる愛の霊です。平和を築き上げ、人と人との間に平和と和解を創りあげて行く霊です。「君には新しい霊が必要だ」ではありません。これは私たち一人ひとりの「私」の問題です。「私たち」全てに、この新しい霊、この清い霊が必要です。

 個人にも、社会にも、私たちの国にも、国際間においても、です。それは戦いの霊ではありません。戦争の霊ではないのです。戦いをやめしめる霊です。平和憲法は、日本人の戦死者300万人とアジアで戦死した2000万人の尊い命の代償として贖いとられたものです。そこには聖書的な精神もあります。

 「キリストにある時、過去の傷は埋められることなく口を開けている深淵でなく、新しい生命に入る入り口になります」(H.ナウエン)。私たちの持つ傷は、キリストにあるとき、新しい霊、キリストの新鮮な霊が入ってくる入り口になる。それは恵みの入り口、神の恩寵が入ってくる傷口として用いられるのです。弱さが用いられるのです。

 12弟子たちは、ペンテコステにおいてこの新しい霊が降りそそがれるのを経験しました。それは約600年前のエゼキエルの預言が実現したことでした。そしてその約束は、ユダヤ人だけでなく全ての人に対してなされたことを理解しました。キリストの霊である聖霊を圧倒的に与えられてそのことを理解したのです。(完)

       2007年8月12日
                          板橋大山教会   上垣 勝

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  (今日の写真は、ケルン大聖堂内部。悲しみに沈むマリアたち。)