君には新しい霊が必要だ(上)  エゼキエル36:25-28


                           (はじめに)
 今日の題は、「君には新しい霊が必要だ」ですが、「私たちには新しい霊が必要だ」という題の方が良かったと思っています。

 個人的な歩みを考えても、日本社会の現状を見ても、また戦後62年の8月15日を迎えようとしている日本の国を見ましても、「君には」と上から見下ろすような言い方でなく、「私たちには新しい霊、新しい心、新しい精神が必要だ」、もう一度原点に返って歩み出す事が必要だと思うからです。

                             (1)
 暫く前にエゼキエル書17章からみことばを聞きましたが、今日は36章から神の福音を聞きましょう。

 前回おられなかった方々のために背景を申しますと、エゼキエル書はイエスの来られる約590年前のことが書かれています。当時のイスラエルはすでに南北に別れて北王国は滅び、生き残った南王国もあと数年で歴史からまったく姿を消してしまう時代にありました。南王国もすでにバビロニア帝国に大敗を喫し、指導的な人たちや技術者や健康な若者たちが大量にバビロニアに強制連行されて行きました。エゼキエルもその、いわゆるバビロン捕囚民の一人です。

 彼らはチグリス川流域で、捕囚の民・奴隷として運河づくりなどの極めて過酷な重労働をさせられたのです。人とは見なされませんでした。それはエジプトのファラオの下での厳しい苦役の生活に匹敵するものです。

 しかし、これは大昔の中近東の事件ですが、60数年前には日本に中国や朝鮮から大量に労働者を強制連行して、過酷な労働条件の中で鉱山や鉄道作りや港湾建設などをさせたこととダブっています。イスラエル人がバビロンに連行された人数より、日本に連れてこられて東アジアの強制連行者の数の方が遥かに多いわけで、このことでも私たちはこの時代において歴史を振り返り、原点に帰ってえりを正さなければなりません。

 エゼキエルはそういう気が滅入りそうな情況の中で、捕囚の民に神の言葉を語るという預言者としての召命を受けたのです。

 神様は、どんな情況の中でも預言者やみことばに奉仕する人を創り出されます。家事や台所をする人や会社に勤める人の中からも、現代社会に向かって神の言葉を語る人を選び出して行かれるかも知れません。目白に夜学の日本聖書神学校があります。その学生は、昼はサラリーマンをしたり、学校の先生をしたり、主婦であったり、肉体労働で働いたり、今はどうか知りませんがお医者さんをしていたりする人など色々あります。そういう普通の暮らしの中で神様からの召しを受けたということは尊いことです。

 皆さんもある日突然、社会に神の言葉を語る召命を受けるかも知れません。その時、拒んではいけません。マリアのように、「お言葉どおり、この身になりますように」といって応えて下さい。80歳になって召命を受ける人だっているんですから、80歳前後の方も自分は関係ないと思わないで下さいよ。

                             (2)
 イスラエルはなぜバビロニアに大敗したのでしょう。先の日本の戦争のように、小国イスラエルは大帝国バビロニアに物量において劣っていたからでしょうか。作戦がまずかったからでしょうか。

 預言者エゼキエルは、イスラエルの罪にこそ原因があったと言います。36章の半ば以下に、イスラエルは自分たちの国にいた時に、すでにその歩みと行いによってその地を汚していたと言います。また、彼らは神に対して頑固で預言者たちの言葉に従わず、例えばすでに当時エレミヤはイスラエルで預言していましたが、従いませんでした。彼らは従わずに、流血や偶像崇拝によってその地を汚したのです。そのために、神は「彼らを国中の中に散らし、諸国に追いやり、その歩みと行いに応じて裁いた」というのです。

 ところが、バビロンでの人として扱われない厳しい生活の中で、かつては頑固で強情だった彼らはまったく希望をなくし、無気力になり、神を信じ従うこともなくなります。かつては高慢の中で従いませんでしたが、今は絶望の中で従わないのです。こうして、「イスラエルの家は、その行った先の国々でも、主の聖なる名を汚すことに」なって行ったというのです。神の民であった筈ですが、神の名を汚す民になったのです。

 こんな救いようのない民は捨てるしかないのでしょうか。相手にすべきではないのでしょうか。だが、神の思いは人とは異なります。

 神は、イスラエルに基づいて行動されるのではありません。神は、神の聖なる名に基づき、聖なる名を根拠にして民を新しくしようとされるのです。それが今日の25節以下です。

 「私は清い水をお前たちの上に振りかけるとき、お前たちは清められる。」こういう言葉が、突然出てきます。驚くほど唐突に書かれています。それは、神の恵みは人間に基づかず、ただ一方的に恩寵として授けられるからです。まさに神の恵みは、神の聖なる名にのみ源泉を持つからです。そういう恵みの水が人々の上に振りかけられるようになるというのです。

 エゼキエル自身、これが600数十年後にイエス・キリストの十字架の血、そしてキリストの名に基づく清い水、すなわち洗礼につながって行くとはよもや想像しなかったでしょう。しかし、預言者がそれを認識しているかどうかにかかわらず、神は預言者を用いてそれを実現して行かれるのです。

 「私は、お前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く。私は、お前たちの体から石の心を取り除き、肉の心をあたえる。」

 石の心とは、頑固な、固く閉ざした心です。ただ、神はそれをこじ開けられません。こじ開けようとすれば貝のように固く閉ざします。それがイスラエルです。

 おとつい、孫のみっちゃんを連れて大山駅の向こうのハッピーロードまで買い物に行きました。乳母車でなく、手を引いたり抱っこしたりして行きました。スーパーの「ヨシヤ」に入って、小さめのカゴを渡したら片手に持ってどんどんお店の中に入って行きました。初めてのお買い物です。見ていたら、豆腐コーナーのところで値段の高い方の豆腐に手を出しました。すると、おばあちゃんが安い方の豆腐と交換してカゴに入れました。それから佃煮のコーナーに行って、ビニールに入っている大きな白い大福豆の甘く煮つけたものをつかみました。後から来た妻が、これは甘すぎるからダメと言って戻しました。後れて着いた私は、それが好物ですからこっそり買い物カゴに入れました。

 帰りにハッピーロードを歩かせながら帰ろうとしたんですが、自転車も歩行者も多いです。危ないから手をつなごうとします。すると私の手を振り払って逃げるんです。危ないから手を離さないでいると、路上でしゃがんで石のように固まるんです。テコでも動かないぞという感じです。無理に引っ張ると、心が石になって「ワーン」と泣かれるかも知れません。それで、適当に手をつないだり、ゆるめたり、放したりして帰って来ました。

 固く閉ざした心をどうするかは人間関係で一番難しい難問です。家の中でも、職場でもそれで人は手を焼いているのと違いますか。皆さんどうですか。

 神は、「石の心を除き、肉の心を与える」のです。ご自分の名のゆえに、それを根拠に新しい心を与えるのです。そうでなければ何を根拠に新しい心を創ることができるでしょう。神の名に根拠を置いて下さるゆえに確かなのです。その恵みは確実なのです。
   
  (次回に続きます)

          2007年8月12日
                          板橋大山教会   上垣 勝

  ホームページはこちらです:http://www.geocities.jp/itabashioyama_ch/
  (今日の写真は、グーテンベルグ銅像。彼の広げた紙には「光があった」と書かれていました。彼は聖書を真っ先に印刷しました。)