誰も泣かせない社長(下) マタイによる福音書20:1-16節


  (前回から続く)
 ヘンリー・ナウエンさんは、何回かご紹介していますように、ハーバード大学を辞めて知的障害者の施設で働くようになったわけですが、それに決定的な影響を与えた人があります。ナウエンさんは、「彼がいなかったら、私は今頃どこにいただろうか」と言っています。

 その人とは、ひどいてんかん症に苦しみ、身体的な障害を沢山持ったアダムという青年でした。多くの人に深い感化を与え、34歳で亡くなりました。一言も話せなかったけれど、豊かな内的生活を送っていたのです。人に平和をもたらす人であったと言います。その青年の弱さは偉大な弱さだったと、ナウエンさんは書いています。彼には、神様への全幅の信頼がその顔に、その輝いた眼に表われていたのです。彼はそういう障害を持ちながら、神の招きに応答して生きていたのです。

 キリストは、彼の一切を引き受け、神の前にとりなし、一人の人間の人生の価である1デナリオンを支払って下さった筈です。「善かつ忠なる僕よ。よくやった。」キリストはこう言って彼を御国に迎えられたでしょう。

 ぶどう園で働いた労働者に支払われた1デナリオンとは、キリストが一人ひとりの救いのために十字架で支払ってくださる命の値です。十字架の値は、万人に与えてくださる1デナリオンのことです。神によって義とされる、「あなたはそれでよし」と義を保障されることです。キリストはご自分の命の値を、私たち一人ひとりに血をもってお授けくださるのです。

 主人は9時頃行ってみると、「何もしないで広場で立っている人々がいた。」12時頃、3時頃、そして5時頃にも行ってみると、まだ「何もしないで、一日中ここに立っている人がいた」のです。

 しかし主人は、全ての労働者に働くチャンスを与えます。5時になっても市場に行くのです。

 決断のチャンスは12時、3時、5時と幾度もあります。チャンスは1回だけではありません。神に従うチャンスを一度逃した人にも、神は何度もチャンスを与えて雇ってくださり、応ずるのを待ってくださるのです。だが、「時すでに遅し」ということがないなどと神を侮っていてはなりません。

                              (5)
 4世紀の終り頃に、聖クリソストムという人がいました。日本でいうと聖徳太子の100年程前のことです。東ローマ帝国の首都コンスタンチノープル、現在のイスタンブール大司教になった人です。

 彼はこの箇所を説教して、「誰であろうと、貧しい人を悲しませてはならない。神の国は全ての人に開かれている。誰をも、罪に泣かせてはならない。罪の赦しはキリストの復活の墓からやって来る。誰にも、死を恐れさせてはならない」と語っています。

 いかなる最後の者にも、キリストは十字架の命を差し出して下さり、その尊い熱い血を流して下さるのです。そこには少しの差別も、区別すらない。彼はそのことをできるだけ鮮明に語ろうとしました。

 聖クリソストムは今から1600年も昔に、彼の生地アンティオキアの都市で貧困を根絶しようと試みました。貧困の根絶です。何と高邁な信仰でしょうか。また、高位の聖職者たちがもっと貧しくなるようにと企てました。更に病院を増設し、貧しい人たちを迎えるセンターを立ち上げています。

 彼は、全ての人たちが一つになり連帯するように説いたのです。彼の生涯のテーマは「連帯」ということでした。彼は、「貧しい人や苦しむ人たちと連帯すること。この連帯性は、キリストがこの世に存在されることの真の徴だ」と述べています。

 格差是認ではないのです。「格差なんていつの時代にもある」などと開き直らない。一国の首相がこういう開き直りをしては、国民が苦しむのは明白です。「競争が進むとみんなが豊かになって行く」。そういう政治家の哲学は国民を不幸にします。聖クリソストムは決して格差を是認せず、連帯を追求しました。連帯のないところには、キリストの存在の徴がなくなるのです。

 キリストが世に存在する徴があるかどうかは、その社会に連帯性があるかどうか、富める者と貧しい者の分かち合いがあるかどうかに掛かっているのです。非常に今日的な問題です。

 今日はこの後、聖餐式があります。彼はこう言います。貧しい人は、もう一人のキリストである。聖餐式のパンとぶどう酒は、街頭において貧しい兄弟に聖餐を与えることによって継続されねばならない。街頭で聖餐を与えるとは、貧しい人たちにパンを供給することを指しています。聖餐式はそのようにして街頭に出てこそ、完結するのです。

 もう1つ紹介しましょう。聖餐式においてキリストの身体を感謝しほめたたえたいと思う人は、「これは私の体である」と言われるお方は、「あなたが、最も小さい者の一人にしたのは私にしたのである。だが、最も小さい者の一人にしなかったのは私にしなかったのである」とも、言われたお方ですから、「あなたの持ち物を貧しい人たちと分かち合うことによって、キリストをほめたたえなさい」と語ったのです。

 聖餐式の本義はここにあると言わねばなりません。即ち、聖餐式の本義は儀式でなく、隣人愛なのです。キリストの私たちへの隣人愛、贖罪の愛であり、隣人への私たちの愛なのです。聖餐式が、コミニオン=交わりと呼ばれるのは、この愛の本義を指し示しています。

 ぶどう園の主人は、この社長は、遅く来た人たちそして最後に来た者とも連帯しました。クリソストムはぶどう園の譬えを1つの比喩として聞きながら、しかし現実社会においても、これに類比したことを行なうことがキリストから求められていると説き、そう生きたのです。

 2つのことを今週お考え下さい。
 1)私たちにとって、このぶどう園の譬えは何を意味しているでしょうか。
 2)この最後の者は、自分にとってはどういう人でしょうか。そして、その人に連帯するとは何をすることでしょうか。
                                           (完)
               2007年8月5日
                              板橋大山教会 上垣 勝

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  (今日の写真;果たしてどこの国の人たちでしょう。インドネシアの友人の女性牧師が、アメリカに留学して学校のゼミで韓国で研修しました。韓国人は多くいません。東洋だけでなく南米の原住の人たちも黒髪です。)