誰も泣かせない社長(上)  マタイによる福音書20章1-16節


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 最近は耳慣れない固有名詞を耳にします。フルキャストというのもその1つです。一座の俳優さんとか出演者たちが総出で何かをするのかと思っていました。そしたら、大手の派遣会社の名前だということをやっと知りました。

 わたしは非常識な人間なんですね。時代遅れと言うか。家でもそう言われています。

 派遣社員というと、コンピューターができたり、簿記ができたり、特別な資格があって会社に派遣さる仕事が多いと思っていましたら、日雇い労務者とあまり変らない港湾荷役にも派遣していたというので、これは違法ですから、何ヶ月かの事業停止命令が出ました。

 港湾荷役というのは寄せ場で人足を今も集めているのかと思っていましたら、それもされていますが、携帯電話で人足を集めていたというので驚きました。

 寄せ場というのは、昔は大川端とかにあったようですが、今は山谷や横浜の寿町とかあちこちにあります。朝4時半頃から6時頃まで、手配師が、いわゆるブローカーが日雇い労務者の人足を集める所です。遅く行くともう仕事がありません。その日はアブレです。必要な人数が集まると、建築や土木現場や荷揚げ作業の現場に自動車で連れて行かれるわけです。

 手配師は、若く頑丈で元気な人間を選ぼうとし、働く方はなるべくきつくない日当が良い仕事を選ぼうとします。

 私は東京では経験はありませんが、大阪の釜が崎でたった一回、学生の時、寄せ場を経験したいと思って行きました。どうせするなら少しきつい仕事と思って貨物船の荷役作業をしましたが、炎天下本当に大変でした。ムチは飛んで来ませんが、監視がきつくひと時も休めません。船の荷役の仕事は2度と味わいたくないと思いました。もうこりごりです。

 手配師は倍以上のお金をピンはねしているわけで、フルキャストだってかなり儲けていたといいます。

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 今日の「ぶどう園の労働者のたとえ」も、早朝から人夫を雇う話です。「ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出かけて行った。」「広場」に出かけて行ったとあります。

 広場というのは寄せ場ではありません。広場というのはアゴラという言葉で、市場のこと、町の中心地、今でもヨーロッパに行くと町にはマーケットプレイスというのが必ずあって、バザールのようなものをいつもしていて、その周りに商店が集まっています。その広場は人が集まるところですから、そこに労働者を見つけに行ったわけです。

 そして1日1デナリオン(約1万円)の約束をして労働者を農園に送ったのです。夜明けというのは朝6時頃を指しています。その後、9時、12時、3時。そして仕事は夕方6時に終わりますが5時頃にも行って、まだブラブラしている人たちを雇ったのです。

 そして日当を払う時になり、最後に来た人たちから支払い始め、この人たちにも1デナリオンを支払ったものですから、夜明けから長時間働いた者たちはもっと沢山もらえると思って期待していると、彼らにも1デナリオンずつだったので不平を言ったというのです。ところが主人は、私は不当なことをしていない。君とは1デナリオンの約束をしたじゃあないか、私はこの最後の者にも君と同じように支払ってやりたいのだ、と語ったのです。

 この話は、一面、主人は非常に身勝手に見えます。朝早くから12時間働いた者にも、1時間しか働かなかった者にも同一賃金というのはひどいと思います。少なくとも公平ではないわけです。こういう職場が現実にあったら、労働者たちは、不当労働行為だ、不当な雇用だと言って大変な騒ぎになることでしょう。

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 しかし、この「ぶどう園の労働者のたとえ」で一番重要なのは、1日働いて1万円ですから、最後に来てたった1時間しか働かなかった人たちは、千円にもならない給金を貰って帰されて当然ですが1万円貰ったというのですから、9千円はこの社長の持ち出しです。本当は12分の1の賃金を払えばいいのですが、12分の11は主人が身銭を切って払っているのです。

 当然、3時に来た者にも、12時、9時に来た者にも、社長は身銭を切ってまさに12節にあるように「気前よく」出血サービスをした筈です。

 これは1節にあるように、「天国のたとえ」なのです。天国とあるのは、神のご支配の姿、神の王的支配のことで、その有様をこのたとえは述べているのです。神は、私たちをどう治められるのかという話です。

 神は、私たち一人ひとり十分な働きをした者にも、不十分な働きしかしなかった者にも、ただキリストを信じる信仰によって救いを与え、義としてくださる。神は、私たちには何の勲(いさおし)もないのに、独り子のキリストを十字架につけて自らが身銭を切って私たちを贖い、神の子としてくださるわけで、まったく気前いいのです。

 1デナリオン。それは一人の人間の人生の価です。人の命の重さです。神の前に来る人は、誰でもどんな過去を持っていても、どんな汚れや罪や負債を抱えていても、皆この報酬を受け取って安らうことができるということです。神は誰をも泣かせられないのです。

 今日は、「誰も泣かせない社長」という題です。通りの看板を見た人たちは、どんな顔をして通ったでしょうか。その人が社長なら、「ウエッ!」となって一日中考え込んだでしょうか。あそこの教会はとんでもない教会だと思ったでしょうか。妻からは、「おかしな題だ」と言われました。

 しかし、おかしくありません。神は「誰も泣かせない社長」、いやそれ以上の方なのです。

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 先ほど、「十分な働きをした者にも」と申しました。炎天下、夜明けから働いた人、12時間力を尽くして働いた人を指してそう言いました。

 しかし、今日の話は第1節が重要です。「天の国は次のように譬えられる。ある家の主人がぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出かけて行った。」(1節)。

 一切は、この主人が出かけるところから始まります。人生は、私たちが始めるのでなく、神が私たちに向かって来られて人生というぶどう園に招かれるのです。

 人生の早朝から、神の畑で働く人もあります。しかし、後の方になって神の所に来る人、神のために働く人もあります。重要なことは、神が先手をもって私たちを神の働きに与らせようとされていることです。

 早い遅いは関係ありません。むしろ今日の最後のところで、イエスは、「後にいる者が先になり、先にいる者があとになる」と言われます。

 神の招きに応じない限り、一日中、いや一生、何もせずに無為に過してしまうことになるかも知れません。「自分はこんなことでいいのか」という空しさが心から去らないかも知れません。

 日本でもアメリカでも、有名な野球選手やサッカー選手、俳優やミュージシャンの中には私たちとケタ違いの暮らしをしている人がいます。あるハリウッドのスターは、イギリス南部に12億円の古いお城を買ったり、数カ国に別荘を持ったりの生活です。また別の人は地中海の避暑地に19世紀の大司教の司教館を買って別荘として使っています。今は2度目の奥さんとの生活です。大司教館に住んで、むしろ精神的なギャップを感じてプレッシャーにならないとも限りませんかネ。

 そんな所に住んだからと言って、精神的に高い生活ができるわけがないでしょう。大山教会の牧師館に住んでも結構精神的に高度な生活を営む人があるとか……。(だんだん声が小さくなりますが。)

 「神のために」と言っても、何か大きな仕事をすることを言っているのではありません。小さい事柄にも祈りと愛を込めて行うこと、信仰と真実をもって与えられた業にいそしむことです。「小事に忠実な者は、大事にも忠実である」とあるでしょう。

                       2007年8月5日
                                   板橋大山教会 上垣 勝

  ホームページはこちらです:http://www.geocities.jp/itabashioyama_ch/
  (今日の写真は、8月中旬に開かれている、世界で屈指のエディンバラのサマー・フェスティバル。正面の教会の向こうがエディンバラ城。)