「鍵を握るのは誰か」  エゼキエル17章22-24節


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 旧約時代には多くの預言者が出ました。その中で、イザヤ、エレミヤ、エゼキエルなどは大預言者と呼ばれて多くの人たちに影響を与えて来ました。

 今日のエゼキエル書は、その大預言者エゼキエルが紀元前590年頃に、メソポタミアで書いたものです。ダビデ、ソロモン時代に繁栄を誇ったイスラエルですが、その後、南北2王国に分かれ、721年に北王国が先ず滅ぼされた後、南王国も度々侵略を受けて、この頃はもう末期を迎えていました。

 今日の世界と似て、この南王国を取り巻く当時のパレスチナの政治的状況は、非常に複雑で、当惑させられることが次々起りました。

 南王国は小国で、北にバビロニア、南にエジプトと2大国に挟まれ、どちらと同盟を結べばいいのか常に頭を悩ます悩みの種でした。2つの大国が対抗するのを利用してうまくその隘路を進もうとしても、敵と通じている見られるなら、反って自らを窮地に陥れました。

 ある会社で、同じ部課内の、自分が属する課長と別の課長を比べると、どうしても別の課長さんの方が説得力はあり、理が通っていると思うのですが、そんなことをおくびにも出せません。場合によっては裏切りとも取られないとも限りません。そんな中でも、将来性を考えて自分の身の振り方を探るということがあったりします。またある学校で、個性の強い先生たちの主張のどれが真実なことなのか、誰を信じればいいのか分からない、そんなことで困ってしまうということを聞いたこともあります。

 今日の国際間においても、国々には色々な思惑が付きまといます。2,600年前の古代社会ですが、エゼキエルの時代においても同じです。日曜日の夜の武田信玄のドラマでも、国々が乱立する戦国時代にそれぞれ国の思惑を推し量ることはなかなか難しく、作戦に長けた策士が活躍したように描かれています。

 いったい誰を信じればいいのか、鍵を握るのは誰かということです。

 大国に挟まれる国際関係の中で、預言者たちは神に信頼するように説きました。そして、歴史の主なる神。歴史をご支配される神に信頼を置くように説得したのです。だが、このような態度は現実主義者たちには満足を与えるものではありませんでした。物事をあまりに単純化していると思えたからです。

 しかし、現実に立った見方といいますが、真の現実主義とは何でしょう。どこで発見されるのでしょう。

 預言者エゼキエルは大国と同盟を結んで安泰を図ろうとする指導者たちを批判します。そのような大国への依存主義は一種のゲームであり、一種のバクチだというのです。その様なあり方では、最後にはまったく無に帰するだろうと言うのです。そして実際、この書が書かれて僅か10数年後に彼の預言が実現し、イスラエルの国はまったく地上から消滅しました。いかなる大国も、愛によって行動しているものはなく、自国の利益、自国のエゴによって行動しているからです。

 弱肉強食。それが現実であり、エゼキエルはその現実を見ていたのです。

 エゼキエルは、最も有力なものと契約関係を結んで自分の道を見つけていこうとするあり方は、その出発点から間違っており、最初から失敗するのは明らかだと言うのです。

 もちろん、他国との関係や協調は大切です。今日では、それはますます重要になっています。ただ、日本が国際社会で確固とした地位を築くためには、先の戦争は正しかった、やむを得なかったなどと言っていては信頼関係を築くことは不可能です。先の戦争の非を他国が指摘するよりも鋭く認めて、戦争の責任を表明したり、日本の軍国主義を強く批判したりしなければ、近隣諸国はいつまでも日本を警戒します。警戒して、決して尊敬されることはないでしょう。世界中で今、日本を尊敬する国は殆どありません。外国に住むとそれが分かります。単に経済力や技術力が優れているので一目置いているだけです。しかし、一番大事なのは信頼関係を創り出すことです。お金によっては創り出せません。国連の常任理事国に入るために、先の首相の時色々と金による工作がなされました。そこに大きな思い違いがあります。世界は、そういう工作をしている日本は美しくないと見抜いています。

 私たちの個人生活においても人間関係は大切です。信頼を創り出す人間関係が特に重要です。

 しかし、神との関係・根源的なものとの関係を持たず、人間関係だけで生きるのは危険だとエゼキエルは言うのです。神との垂直的な関係があるとき、色々な悩みや苦悩があっても乗り越えていけるし、それらを担っていけます。しかし人間関係のみで人の顔色を窺って生きているのでは、必ず大波を受けると沈没してしまいます。

 ヘンリー・ナウエンはハーバード大学の教授でしたが、それを投げうってラルシュの知恵遅れの人たちと共に生きたことは、以前に話しました。一年間の休暇を終えて、再び仲間と働こうとデイブレークに帰りましたが、3週間後に亡くなりました。出版を目的にしていませんでしたが、彼が書いたその日記に、こういう言葉がありました。

 「わたしたちは霊的に健康であることによって世界の役に立つ。……問題は、『どれだけ多くの役に立つか』とか、『どれだけ大勢の人々の役に立つか』ではない。大切なのは、『私たちの心に平和があるか』だ。……イエスの活動は、彼の内面的な神との交わりから生まれた。彼の存在そのものが、人を癒し、世界を変えた。」

 神との関係で心の平和を得ていること、霊的に健康であることが人々の中で、真に役立つのです。物質世界、営業の世界においても、私たちの霊的な健康が人々を励まして役立つのではないでしょうか。私たちの存在そのものがどうあるかが、最も重要なことです。

 小さいことのように見えて、ここに人生と社会の重要な「鍵」があります。

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 当時の混乱した国際社会にあって、エゼキエルは今日の言葉を預言しました。まったく思いがけないことだが、神ご自身が歴史の中に介入して働かれると言うのです。

 「私は高いレバノン杉の梢を切り取って植え、その柔らかい若枝を折って高くそびえる山の上に移し植える。イスラエルの高い山にそれを移し植えると、それは枝を伸ばし、実をつけ、うっそうとしたレバノン杉となり、あらゆる鳥がそのもとに宿り、翼のあるものはすべてその枝の陰に住むようになる。そして、高い木を低くし、低い木を高くし、また生き生きとした木を枯らし、枯れた木をしげらせる……。」

 「レバノン杉の柔らかい若枝」とは、この国の残りの者たち、神と関係を結んだ少数者たちのことです。神はその少数者をふるさとに返して、彼らがそこで根を張るものとなる。この少数者たちが、やがて非常に巨大なレバノンの香柏と呼ばれる大木になり、多くの空の小鳥たちが来てその枝々に巣を作る。

 このようにして、人々はやがて、神のみが人類の歴史に対して「鍵を握る者」であることを知るだろう。まったくの無の中から、神が不思議な事をすることがお出来になるのを、人々は知るようになるだろう。そして、人間の力や偉大さは決して永遠ではないことを知ることになろう。エゼキエルはこのように預言したのです。

 彼の預言は何を私たちに語っているのか、まるで固いクルミの実のようで、その真意の核心にまで入っていくことの困難さを覚えます。

しかし、言い得ることは、この預言が指し示すのはイエス・キリストであるということです。エゼキエルの時代から約600年後に来られたイエスが、初めてその謎を明らかにする言葉を語られました。

 マルコ福音書4章30-32節がそれです。「神の国は、一粒のからし種のようなものである。土に蒔かれる時には、地上のどんな種よりも小さいが、蒔くと成長して、どんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥たちが来て巣を作るほど、大きな枝を張る。」

 「からし種」は、以前、皆さんにお見せしたことがあります。まったく小さい。ゴマの種と比較すると、ゴマは巨大な種に見えます。50倍でしょうか、60倍でしょうか。からし種は床に落とせば、決して見つかりません。ホコリより微小な存在です。だが、その中に命があります。だから土に蒔けば、育って、4-5メートルの高い木になり、葉が繁って小鳥たちが来て巣を作るほどになるのです。

 イエス・キリスト。このお方も、ナザレの村に育った小さいお方です。世界は彼を注視せず、「ナザレから、どんな良い者が出ようか」と腐され、排斥されました。そして、イエスは殺されます。この小さい種は滅びます。だが、神の働きによって甦って、その福音はやがて全世界に、地の果てまでその枝を伸ばしていきました。あらゆる小鳥がその木に宿ることになりました。

 イエスの十字架と復活。そのいと小さい種。それが歴史の中で鍵を握っているのです。神が植えられたこの小さな種が、年を経ると共に音も立てずに育っていきました。

 「東武東上線」と言うと、「なんだ」という顔をされます。この沿線に住む人は田舎者だと見られているようです。その大山といっても、大山から何の良き者が出ようかという訳です。しかし、東京の有名な歴史ある教会と比べると、大山教会は比較にならない程小さいかも知れませんが、既にこの教会は神の手によって「蒔かれ」ました。やがて成長すると、どんな教会よりも充実したものになるでしょう。「大きくなる」ことだけが良いことではありません。「充実する」ことが大事です。そこで、生命のみ言葉が語られ、まことの命がみなぎっていれば、そこで命が与えられれば十分です。そうすれば空の小鳥たちが来て、やがて巣を作るほどの木になるでしょう。これは夢でしょうか、幻想でしょうか、それとも預言でしょうか。

 たとえ大山教会がそうならなくてもいいのです。今、既に、キリストの木は世界に大枝を伸ばし、大地に深く根を張り、これまで嵐の時代や落雷の時代もありましたが、今や小鳥たちが来て宿るものになっています。「小鳥たち」とは、異邦人たちの象徴です。ユダヤ民族を越えて、キリストの木には世界の多様な民族、多様な国民、多様な人々が宿り、そこで巣をつくり、生活を営み、自然との共生の中で世界中にその枝を伸ばすものになっています。

 エゼキエルの預言はここに成就しているのです。「レバノンの柔らかな若枝」、そして神が蒔かれた小さなからし種は、うっそうとしたレバノン杉に育ちました。神こそ人類の歴史の「鍵を握るもの」と言えるのではないでしょうか。

 世界の人たちは、このからし種の小ささのために殆どその存在を問題にしないかもしれません。それが「鍵」とは思わないのです。しかし、知られていようが知られていまいが、そういうことは本質とは無関係です。私たちは、世界の歴史に「鍵を握っておられ方」に信頼をおいて進むのです。

 大きくなろうと思う必要はありません。霊的にも誇ってはなりません。小さいままに留まり、貧しいままに留まり、その小ささのままに世の小さい命ある光として、隣人らと共に隣人の中で小さい光として生きればいいのです。神との間で心に平和を得て「霊的に健康を与えられていること」、それが結局、命ある光として生きる「鍵」になります。
                              2007年7月15日
                                  板橋大山教会 上垣 勝

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 (写真は、テゼの近くのグローズン川。人生と同じく曲がりながらも流れて、大海に向かいます。)