神の現実と私たち(1)  ガラテヤ3:26-29


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 パウロは今日の28節で、「もはやユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません」と語っています。

 彼はここで、世界についての新しい見方、その新しいアイディアを提案しているのでしょうか。思想家たちが新しい考えを人々に提案したり、社会に対する見方の変更を迫ったりするように、パウロ人間について、昔からの先入観から自由な見方を提案しているのでしょうか。

 いや、彼はそういう新しい視点を語ろうとしているのではありません。新しい視点や新しい見方ではなく、彼が経験している新しい現実、彼が見ている新しいリアリティを語っているのです。

 私たちは真の闇の暗さを殆ど知りません。私は以前地方に住んでいました。車で40分も走らせれば美しい山間部に行くことができました。あるとき夜中に星を見に行きました。山中に車を止めて空を仰ぐと、満天の美しい星空でした。でも漆黒の闇です。すぐに不気味さが私を襲いました。熊がよく出没する所でもありましたが、もっと恐ろしい何ものかが闇の中から窺っているような恐怖を感じ、早々に山を降りました。自然のリアリティはすごいものがあります。
 よく自分は自然派だとかいうことがありますが、真の自然の恐ろしさはその現実に触れてこそ分かります。

 そのように恐ろしい夜ですが、いったん夜が明ければどうして恐れる必要があるでしょう。夜が明けたというリアリティもやはりすごい力です。夜明けの明るさの中で、新しい希望と解放感、確かな喜びを授けてくれます。

 「あなたがたは、信仰によりキリスト・イエスに結ばれて神の子です。キリストに結ばれ、キリストを着ています。もはやそこでは、ユダヤ人もギリシャ人も、奴隷も自由人も、男も女もない。キリストにおいて1つです。」

 これは思想でなく、確かな現実なのです。考えでなくリアリティなのです。ドイツ人はこれを、ヴィルクリッヒカイト(Wirklichkiet)神の現実といいます。著者のパウロは、この神の現実をガラテヤ所全体で語ろうとしています。

 そしてこの現実は決して変りません。昼はやがてまた夜を迎えますが、キリストと神の現実は決して変ることも古くなることもありません。いや、信仰のリアリティは、年齢を重ねれば重ねるほどその奥深さを分からせられるものです。

 ですから、「キリストにおいて、もはやユダヤ人もギリシャ人も、奴隷も自由人も、男も女もない。キリストにおいて1つだ」とパウロが語ることが、もし真の現実だとすれば、私たちは自分についての見方や人間についての見方、あるいは教会についての見方もすっかり考え直さねばならないのではないでしょうか。

 他の人と対立して考えるのでなく、考えの出発点に、「皆一つだ」ということを置かなければ、それらすべてがおかしくなるのではないでしょうか。

 時々、「教会派と社会派」を対立させたり、プロテスタントカトリック東方正教会を対立させたり。それらにはいろいろの考えの違いがあるでしょうが、対立を煽るのが主にあっての生き方なのでしょうか。それとも、それらの真理契機に目をとめ、一致を探るのが主の御心なのでしょうか。

 それにしても、ガラテヤの教会の一番の問題は、ユダヤ教的なキリスト教が入って来ていたことです。それは今述べたグループの対立とはまた次元の異なるものでした。それはキリスト教になっても相変わらずユダヤ人やユダヤ教を重視し、キリストを信じるだけではダメだ、律法を守り割礼も受けなければダメだと主張していました。女性よりも男性を重用し、身分の差も払拭しないキリスト教。教会内の知識人や金持ち、また強者を優遇するキリスト教。キリストによって「新しく創造され」(6章)ようとしないキリスト教。それはキリスト教なのでしょうか。そういうキリスト教が入って来ていたのです。

 そのことに危機感を抱いたパウロは、キリストにおいてはユダヤ人とギリシャ人の対立は終わったということ。差異はあっても差別はない、優劣はない。それぞれの個性も特質も失わぬまま民族的・宗教的な格差はない。その格差は終わったということを語りました。

 この基本的な出発点を欠き、この座標軸を失えば、信仰者の生き方の原点ともいうべきものを失うことになり、キリスト教のあり方に曲解が起ってしまうと語ったのです。

 言葉をかえて言えば、キリストにおいて世界の人は皆、どんな人もキリストの家族の一員であるということです。小さい家族ではありません。世界にまたがる大家族の一員です。例外はありません。なぜなら、「キリストに結ばれて皆、神の子」になったからです。「洗礼によって、キリストを着ている」からです。そういう新しいクリエーション・創造が、キリストにおいてあなたがたの上に起ったと、パウロは言うのです。

 「キリスト者の交わりは、イエス・キリストを通しての、また、イエス・キリストにある交わりです。キリスト者の交わりはそれ以上でも、それ以下でもありません。」これは戦時下、ナチス政権下に抵抗運動を起こし、捕われて犠牲となったD.ボンヘッファーの言葉です。

 彼のように考える時、教会派も社会派もない、プロテスタントカトリックもないと言うことになるのではないでしょうか。彼は、プロテスタントの牧師でしたが、プロテスタント教会ではあまり聞かれないロシア正教神学者たちの考えを多く取り入れています。

 「キリストを通し、キリストにあって」、既にその壁は越えられており、「皆一つ」であるからです。

 洗礼を受けて私たちはキリストの体の一部になります。キリストの体の他の器官にも結びついたのです。そこにキリスト者の独自性、固有性があります。キリスト者の兄弟姉妹関係は、理想でなく神の現実なのです。霊的な現実であって思想ではありません。

 ですから、その中の一人が痛むことは体全体の痛みになります。一人の悩みは他の人たち、体全体の悩みになります。ですから私たちは、互いに自分の体の一部分として他の人のために真剣に祈り合うのです。これは理想ではありません。これが神の現実だから、感謝してそれを行なおうとするのです。互いのことを祈りあうのは喜びなのです。誉れであり、特権なのです。

  (次回に続きます)
                                 2007年7月8日
                                       上垣 勝

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 (写真は、ハイデルベルグの“聖霊教会”です。ここに広島原爆のステンドグラスがあります。この教会の信仰が示されています。次回はそれをご覧下さい。)