「私の軛(くびき)を負いなさい」②  マタイ11章25~30節


                            (3)
 
 イエスは次に、私は柔和で謙遜な者だから、「私の軛(くびき)を負い、私に学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる」と言われました。
パレスチナ地方では畑を耕す時、普通は2頭の牛に鋤を引かせます。その2頭の首に渡しているのが軛です。

 「私の軛を負い」とは、キリストと一緒に軛につくことです。すると力の強いキリストが軛の大半を負ってくださり、私たちの重荷が軽くされます。自分の重荷を負っているのに、更にキリストの軛にまで繋がれるという意味ではありません。傍でキリストが一緒に重荷を負って歩んでくださるので、孤立感からも救われます。私たちが一番参ってしまうのは、「自分は一人ぼっちで苦労している。損をしている」という思いです。そう思うと、あせります。憎らしくなります。人に当たります。

 私たちは時に、「こんな所で、自分は何をしているんだろう」、「こんな事をしていていいんだろうか」という思いが湧いて、居ても立ってもおれない焦り、焦燥感に駆られることがないでしょうか。しかし、キリストが傍らで一緒に担ってくださっているのを知ると、焦りが鎮められ、力が湧いてきます。

 ですから、体や心だけでなく、もっと深く「魂の癒し」が人間には必要です。イエスはメンタル・ケアだけでなく、スピリチュアル・ケアを、人の存在の奥深くに至るまでの魂のケアをしてくださるのです。

 魂に休みが与えられ、魂に平和があるとき、周りの人に生きる元気さを勇気を与えることができます。心の深いところに平和があると、失望や落胆で心が沈みそうになる時にも、また軽やかに進みだす力が出てきます。平和がないとそういう時に当り散らします。うまく行く筈のものも壊していくのです。

 私は、そういう焦燥感が長くありました。しかし今はすっかりなくなりました。それは、キリストに「信頼し切った」からです。「信頼し切る」時、焦りがなくなり、「安らぎが得られる」のです。誰にもです。

 イエスが伝道の失敗に直面しても焦るのでなく、新しい発見をなさったのは、神に信頼し切っておられたからです。

                            (4)
 
 イエスは更に、私の軛を負って「私に学びなさい」と言われました。

 最初に申しましたように、イエスは洗礼を受けたときに、「あなたは私の愛する子。私の心に適う者である」という声をお聞きになりました。

 「私に学びなさい」とは、私たちも、キリストの十字架と復活の恵みによって、「あなたは私の愛する子。私の心に適う者である」と神から呼びかけられていることを学ぶのです。私たちは元来、「神の子」と言えるような清い人間ではありません。しかし、主の憐れみによって「神の子」とされたのです。私が「神の子」になったんでなくて、まったく一方的な憐れみによって、そのように取り扱ってくださる、救われた罪人なのです。救われた「罪人」ですが、「救われた」罪人として、「神の子」として取り扱ってくださるのです。

 ルカ福音書15章に、放蕩息子の譬えがあります。彼が父親の身上を食いつぶして哀れな姿で帰ってきた時、父は喜び迎えて彼に晴れ着を持ってこさせ、手に指輪をはめてやります。神は私たちのような罪と汚れの中にある者にさえ、キリストの罪の贖いのゆえに、「愛する子」という指輪をはめてくださるのです。「愛する子」として永遠に取り扱ってくださるのです。このことを「学びなさい」と言っておられるのです。

 「私に学びなさい」とは、キリストが父なる神から愛されているように、私たちも神から愛されていることを学びなさいと言う意味です。そのとき、どんな人も「安らぎが得られる」のです。

 私がキリストの軛について、キリストが私と軛を共にしてくださっていることを知ることが大事です。この軛につけられない限り、ましてや軛から逃げていては、私たちが生きている土地、私たちの足元の生活を耕すことはできません。また、人生を深く耕すことなしには人生に味は出てきません。しっかり耕してこそ、良い実を結ぶことができます。

 そしてキリストの軛につき、イエスを信じ、イエスを私の主、キリストととして迎えて、キリストと共に日常生活を耕し始めるなら、「こんな所で自分は何をしているんだろう」というような焦りや不安は、必ず解消されていきます。どんな荒地も深く耕されて良い実を結ぶところとなります。
                     2007年6月25日(月)白十字老人ホームで
                             板橋大山教会  上垣 勝

  ホームページは;http://www.geocities.jp/itabashioyama_ch/
  (写真は、前回に続きウンターリンデン博物館にある降誕図。写りが悪いですが、前に立つと天上の音楽が聞こえてきそうで驚きます。日本で展示されれば、会場は人で溢れかえることでしょう。)