「私の軛(くびき)を負いなさい」①  マタイ11章25~30節


                                (1)
 イエスは、今日の25節で、「天地の主である父よ。あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者に隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです。父よ、これは御心に適うことでした」と祈られました。

 「これらのことを知恵ある者や賢い者に隠して」とあるのは、今日の聖書の直前、20節以下のことと関係しているからです。イエスは、この頃ガリラヤの町々で神の国の福音を宣べ伝えておられましたが、ここに出てくるコラジンやベッサイダまたカファルナウムなどのガリラヤの繁栄した代表的な商業都市では、人々はイエスの言葉を聞こうとしなかったのです。カファルナウムなどは、その豊かさの故に、「お前は天にまで上げられるとでも思っているのか」というほどの思い上がりようだったようです。

 そのため、イエスの伝道はいわば失敗しました。うまく行きませんでした。ですから20節以下は、これらの町々へのイエスの嘆き、何と気の毒な町々だろうというイエスの嘆きが表明されているわけです。失敗したから、イエスは呪ったのではありません。悲しまれたのです。

 そして、この世的には失敗に見えた事柄に直面して、イエスは、神の恵み豊かな福音は、「世の賢者や知者たち」すなわち自ら誇ったり、自信満々であったりする者たちに隠されている。だが、心の砕かれた人たちや謙(へりくだ)った「幼子のような」小さい者たちにお示しになる、ということを発見して父なる神に賛美の祈りをされたのです。「あなたをほめたたえます」という言葉は、この新しい発見をされた神への賛美の言葉です。

 イエスにとって神のこの御心の新しい発見は、じつに大きなものでした。ですから更に言葉をついで、「そうです。父よ、これは御心に適うことでした」と祈られました。福音の奥義は、自分の実力で道を切り拓いたと得意になっているこれらの町々や人々には隠されている。別の者に示される。そこに神様の御心があるということでしょう。

 イエスの伝道は失敗ではなかったのです。神の心を更に深いところで知ることができれば、いかなる失敗も失敗ではないのです。人生には失敗はない。今から始めればいいのです。

  「新聞のにおいに朝を感じ
  冷たい水のうまさに夏を感じ
  風鈴の音の涼しさに夕暮れを感じ
  かえるの声はっき利して夜を感じ
  今日一日も終わりぬ。
  一つの事、一つの事に
  神様の恵みと愛を感じて」

 これはどんな人だと思いますか。何歳ほどの人でしょう。若い人?お年寄り?男でしょうか、女の人でしょうか。どんな仕事をしている人でしょう?

 これは「まばたきの詩人」と言われた水野源三さんという方の詩です。小学4年生の時に赤痢で高熱を出し、それがもとでやがて脳性マヒになって、動けないし、しゃべれないし、手も足も動かせない人になって、まばたきしか出来ない寝たきりの生活を何10年も送った人です。でも、水野さんはキリストを知ってから詩を作り始めたんです。
 お母さんが「あいうえお」の表を一字一字指でさして、水野さんがまばたきする時の字を書きとめて、それをつないで出来たのがこの詩です。そんな風にして詩が沢山できていって、やがて詩集を出して、一冊だけでなく何冊も出されたのです。一つの詩を作るだけでも何時間も掛かりますよ。大変な努力だし涙が出そうになるほどの協力です。みずみずしい詩です。とても感性豊かな詩です。
 普通だったら、もう学校にも行けず社会にも出れずとなると、人生に失敗という風に言われたり、自分でもそう思ったりしてもおかしくはないでしょう。しかし、こんな風になっても人生は失敗でないということです。神様は、何かの仕事を残してくださっているのです。

 イエス様はこの祈りをなさった時、ヨルダン川で洗礼をお受けになった時のことを思い出しておられたと、私は考えています。水から上がると、聖霊が鳩のように降って、「これはわたしの愛する子。わたしの心に適う者」という声が天からあったと書かれています。イエスは今日の箇所でその声を思い出して、人の目には失敗と見えることの中にも、これは「神の御心に適う」ということがあり、今なお天の父なる神は「これはわたしの愛する子。わたしの心に適う者である」と語ってくださっている、そう思って、神をほめたたえられたのではないでしょうか。

 私たちは時々、不安のあまり、幾度も幾度もお祈りすることがあります。むろんそのことはいいと思います。「常に祈れ」と聖書にありますし、執拗に祈ることも必要です。しかしイエスは、異邦人のようにくどくど祈るなとも言われました。しっかり祈って、後は神にしっかり委ねる信仰が大事です。

 「日々、聖書の数行の中に入っていきなさい」と、テゼのブラザー・ロジェさんは語っていました。

 聖書は全篇読むことは大事ですが、あまり沢山読みすぎることも不要です。聖書の数行の言葉に日々養われることが大事です。養われるように読まなければならない。

 私たちの教会にTさんという方がいます。目や手足に身体の障害を持っていて、今老人ホームに入っておられます。この方がこの間あった教会の集会で、Hさんという若い方のお話を聞かれて、Hさんのことを文章に書かかれて、
 「若いのに福祉のお仕事に携わり、その他にボランティアもしていらっしゃるとのこと。心の優しい人に感銘を受けました。これからの世の中、多くなる高齢者の弱い人々のために、暖かい手を差しのべてほしいです。
 ピッタリの聖句があります。
   「いかに幸いなことでしょう。
    弱い者に思いやりのある人は。
    災いのふりかかる時、
    主は、その人を
    逃れさせてくださいます。」
詩編41:2-3)
としたためておられました。こういう聖書の数行でいいのです。心に深く刻む時、それがその人を生かすのです。そのことをTさんは知っていて、この短い聖句を若いHさんに送ろうとされたのです。何と心の温かい人かと私は思います。
 そして数行の聖句でも、魂の深みでそれを受け止めて聞けば、明日のことを思い煩うことなく今日の日をしっかり生きることが出来ます。失敗を恐れず、うまく行かない日であってもそれでしょげる事はなくなるのです。

 イエスはこの試練の時に、それに足をすくわれず、天からの声を思い出してその声に励まされて進んでいかれたのです。
                                 (2)
さて、新しい歩みを始められたイエスは、「疲れた者、重荷を負う者は、誰でも私のもとに来なさい。休ませてあげよう」と語って、人々を招かれました。

世の知者や賢者と違い、この世で苦労している人たちや小さくされている人たちの日常的に味わっている重荷や疲れを、イエスはよくご存知でした。イエスは誤解され、憎まれることも、嫉妬されることもあり、殺そうとする人もありましたから、人が持つ痛みや重荷をよく知っておられます。しかし、それを知っているからといって尊大になられません。知者や賢者に神は福音の奥義を隠しておられるからといって、彼らに愛の叱責を加えられこそすれ、見下げられません。「私は柔和で謙遜な者だから」とありますが、実際に「柔和と謙遜」をもって神様について教えられたからです。

エスは弟子たちをも伝道に遣わされました。10章にその時のことが出ています。弟子たちがどこかの家に入ったら、その家に「平和があるように」と先ず平和を祈ってあげなさい、と言って遣わされたのです。「柔和と謙遜」を生きることなしに平和を祈ることは出来ません。平和を語ればいいというものではないのです。キリストの平和で私たちが充たされ、支配され、内側から平和があふれなければ「平和があるように」とは、真に祈ることはできません。

エスご自身、そういう神の平和に生きておられました。そして、「疲れた者、重荷を負う者は、誰でも私のもとに来なさい。休ませてあげよう」と、言われたのです。
 イエスは、疲れた人や重荷を負って倒れそうな人たちを招かれます。キリストの平和で充たされるためです。イエスは、どんなに重い重荷や悲しみ、不幸を負っている人も避けられません。私たちなら逃げ出したり避けたくなる人も避けられないだけでなく、招いた上に休みをお与えになるのです。
しかも、重荷を負って苦労する人であっても来たいと思う人だけにであって、誰にも押し付けられません。一人ひとりの自由を尊重されます。しかし、他人にはひと言も語っていなくても人生や色々なことに疲れてしまっている人、自分では本当に重荷に打ちひしがれそうになっている人が来るならば、キリストは彼らに休息を与え、真の安息を用意されるのです。

「休ませてあげよう」という言葉は、もとのギリシャ語では、バイオリンや竪琴などのピンと張られた弦を緩めて休ませるという意味です。私たちは誰しも、体も心も魂もすっかり緊張を解かれて、ゆっくり休みが与えられなければなりません。私のように、緊張をなくして休んでばかりいてはなりませんが……。

 (次回に続きます)

  ホームページは;http://www.geocities.jp/itabashioyama_ch/
  (写真は、フランスのアルザス地方コルマールにあるイーゼンハイムの有名な祭壇画。修道院が今は   博物館になっています。)