天の父よ


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                                         主の祈り (2)
                                         マタイ6章9-13節


                              (1)
  「天にまします我らの父よ」の「父」は、イエスの父、イエスの知っておられる「父なる神」への呼び掛けです。私たちはこの方を直接知りませんが、イエスの「こう祈りなさい」という導きで、「天の父よ」と呼びかけるのです。

  「父」はアラム語でアバと言います。アバは幼児がお父さんを呼ぶ言葉で、お父さん、お父ちゃん、パパと、親しみと信頼を込めて祈りなさいと言われたのです。こんな親密な事が天地を創造された神との関係で出来るのは、驚くべき事です。「主の祈り」を祈る時、私はイエスを知ってよかったと心から思います。実にもったいない事です。

  「天の父」と言いますが、頭上高く雲の上にいる方に呼び掛けるのではありません。私たちを遥かに超えた全能なる神です。人間の理性も感性も悟性も直感をも越えている方です。だが必要なものを満たして下さる方です。この方に心を高く上げ、喜びをもって呼び掛けるのです。喜びをもってという事を強調したいと思います。

  「我らの父」と言いますが、これはキリスト教徒だけの父でなく、人類全ての父である神です。この祈りはキリスト教徒とそうでない者を、神を知る者と知らない者を、世界を分断するものではありません。むしろ世界を1つにしようとして、あなた方はこのように祈りなさい。私の声に続けて、喜びをもって同じ言葉で祈りなさいと言われたのです。

  祈りにおいて、人は誰に呼び掛け、誰の前に出ているのでしょう。私たちは闇に向かって、虚空に向かって祈るのではありません。得体の知れない偶像や運命の神に向かって祈るのでもありません。それなら喜びはありませんが、私たちは喜びと平和の源である父に呼び掛けるのです。

  さて、「願わくは御名をあがめさせたまえ。」この祈りこそ最高の祈願です。ここに「主の祈り」の頂点があります。私が日々、神の前に出て、先ず祈る言葉は、「主をたたえます」あるいは、「私の心よ、主をあがめよ」という言葉です。祈る時その気持ちが起ります。こう祈ると一日が楽に過ごせます。

  普通の人の祈りは、先ず、自分のお願いではないでしょか。受験に合格しますように。よい就職が出来ますように。良縁がありますように。仕事がうまくいきますように、病気が治りますように……。あれこれを願います。だが、誰が一体神の名を崇めさせて下さいなどと、何よりも先に祈るでしょう。やはりイエスでなければ思いつかない祈りです。ここにこの祈りの人類的な新鮮さがあります。

  「御名」は、神ご自身の本質を指します。「崇めさせ給え」は、御名を聖とさせて下さい、真に神聖なものとさせて下さいと言う意味です。

  私たちはこの言葉で、私たちを神の御名を崇める者にならせて下さい。神の前に生きる、神をまことをもって礼拝する人間にさせて下さいと祈っています。更に、全人類によって神の御名が崇(あが)められることも願っています。万物を創造された神が、人類から崇められて当然であり、神として崇められますようにという事です。イエスご自身、そのように神の御名を賛美し、ほめ讃え、尊いものとして敬い、崇めておられたのです。神への賛美については、後でお家で詩編103篇をご覧下さい。

  今は万民平等で人に貴賤はありませんが、私など、もし高貴な人に、あなたを崇めさせて下さいと言って近づけば、「お前など、あっちに行け」と言われるのが落ちです。聖なる神の前で自分を反省すれば、神を崇めさせて下さいと頼めるような人間ではありません。聖なる神とは不釣り合いな卑しい者だからです。ところが、イエスは私のような卑しい者に神を崇めさせて下さる。それだけでも驚きです。

  それにヨハネ福音書16章で、「今までは、あなたがたはわたしの名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる」 と、イエスの名によって願う事を許可し、願いは聞かれると約束して下さいました。イエスは実に寛大な、心の大きなお方だと思い、その恵みに心が震えます。

  最初の殉教者ステパノは、最高法院に連れて行かれた時、「その顔はさながら天使の顔のように」輝いていました。やがて、彼が殉教の死を遂げる時、満身の力を振り絞って跪(ひざまず)き、彼らに罪を負わせないで下さいと祈りました。それは、「御名が崇められる」ためであったでしょう。そんな思いを抱いて私たちの信仰の先輩は息絶えたのです。

  高齢者の間では「終活」が盛んで、人生最後は、苦しまない、痛まない、長く患わないなどと願っています。教会に通う人もやはりそうでしょう。しかし彼は、「ただ御名が崇められるように」との思いをもって息を引き取った。ここに彼の聖(きよ)さがあります。

  ルターが、「神の名は口先だけでなく、肉体の全肢体と魂を通して崇められたり、汚されたりする」と言っていますが、神の御名をみだりに唱えず、私たちの肉体と魂、存在すべてを通してほめたたえる事が出来れば、何と幸いでしょう。

  「願わくは御名をあがめさせたまえ」で、先ずそんな事を考えさせられます。


            (つづく)


                                         2018年7月8日


                                         板橋大山教会  上垣勝



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