忍耐と慰めの源……


    ジャスミンの絡んだツタを背の高さでバサッとやっちゃいましたら清々しました。    右端クリックで拡大    
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                                             喜びと平和 (2)
                                             ローマ15章13節



                               (1)
  さて、15章5節と今日の13節、それに15章の最後33節に、「忍耐と慰めの源である神」、「希望の源である神」、「平和の源である神」という3つのキーワードが出て来ます。著者のパウロにとって、神は忍耐と慰めの源であり、希望の源であり、更に平和の源である。それが彼の信仰生活での確かな実感であり、人々にもそう説いていたのでしょう。

  パウロにとって神はキリストであり、キリストは神ですが、確かにキリストご自身はご自分を満足させることを求めず、忍耐をもって多くの人を慰められました。神はキリストにおいて、どんなに苛酷でもそれを耐え忍び、それによって私たちに慰めを授けて下さるお方です。このお方を知れば知るほど忍耐が与えられまた慰めを授けられます。

  4月に突然召されたAさんが暫らく前の茶話会で言われました。乳がんの手術をなさった時、耐え切れない苦しみを味合われましたが、イエス様はもっと苦しんでおられると思い至って、自分はこれ位の苦しみで音をあげてはならないと、イエス様の傷に触れて慰められたと語っておられましたが、キリストを知れば知るほど誰でも忍耐と慰めが与えられます。

  パウロがこの言葉を語ったのは、1節にあるように「私たち強い者は、強くない者の弱さを担うべきであり、自分の満足を求めるべきではない」と、自分の欲求だけを全開させるのでなく、強くない者のために自己抑制すべきだと説く中で、「忍耐と慰めの源である神」を語ったのです。

  そして今日の所では、「希望の源である神」が語られていました。これも彼が日常生活で味わっていたのでしょう。キリストは復活されました。死という、すべてのものを無にする究極の虚無の力を打ち砕いて復活されました。だが復活はイエスだけに留まらず、私たちにも復活を約束されました。ここに希望の源である神がいます。この希望はいかなるものにもまさる力です。復活の力に与れば、希望が後から後から湧いて来るからです。

  そして第3に、彼は「平和の源である神」を語ります。信仰者たちに忍耐と慰めを与え、希望を授けて前進させる神は、平和の源であるお方です。心に平和がある時に様々な問題を乗り越えて行けます。平和がないと、ゴミに様な些細な問題にも屁立ってしまします。

  ここで言われる平和は、何も問題や闘いがない状態でなく、どんな困難な問題や環境に置かれても、神との間で平和を与えられる時に、様々な艱難に耐え、困難を乗り越え、やがて練達を授けられて、希望に生きることができるようにして下さる、心の平和、神との間の平和です。神が平和の源であられるからそうした事が可能になるからです。

  パウロはむろん信仰の源である神、救いの源である神については、ローマ書の前半でふんだんに語りました。今15章でこれら3つが語られるのは、信仰や救いの源なる神に立って、キリスト者の生き方、キリスト教倫理の源である神についても語るためでした。

         (つづく)


                                         2018年5月6日


                                         板橋大山教会  上垣勝



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