死も喜び。そこまで行きたい


          オックスフォードに戻りカーファックス塔から北を眺みました。      右端クリックで拡大。
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                                           あなたはアダム (4)
                                           創世記2章6-9節



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  3章に入るとアダムとエヴァ失楽園の話の個所で、人は土から造られたから再び土に帰ると言われ、また生涯土を耕す者となると言われています。人間というのは不思議です。自分が作られた土、その土を生涯耕す者となる。自分の源である土を耕す者とは面白い見方です。

  土に向かって農業をする者だけが土を耕すのではありません。コンピューターを考え出す人も、遺伝子の研究者も、経済学者も、建築業もたこ焼き屋も靴職人も皆、本質的には土を耕しているのです。人は、土という見える世界、触れうる世界、たとえ仮想空間であってもその限界を超えることはできません。それが人間というものです。

  今回初めて考えさせられたことですが、私は土のチリで作られていることを嬉しく思います。壊れやすい存在である事に喜びを覚えます。壊れやすい所に苦労も悲しみもありますが、そういう否定的なものがあるから、格闘が生まれ、格闘があって物語が生まれ、歴史が生まれます。そしていつまでも生きるのでない所に幸があるのです。さっさと去って行ける事の幸いです。実に潔く造られているのがこの死すべきもの、土なる人間です。

  私たちが主を覚えつつ、自分は土のチリであること、死すべきものであることを覚えて行くなら、死もまた幸いであり、喜びになります。死も喜び。そこまで行きたいと思います。イエスにおいて、そこまで行きましょう。

  私たちは神である必要はありません。私たちは永遠である必要はありません。いつまでも若々しく何て、そんな必要はありません。テレビのコマーシャルに躍らされてはならない。神の前にいる時、神とつながっている時、土のチリであることは実に楽しいことです。土のチリであるのは、せいせいすること、気軽な事、潔いこと、くよくよする必要がないことであり、あっさりと生き、あっさりと死ねる道を教えてくれています。実にありがたい道です。

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  最後に、神はエデンに園を設け、お作りになった人をそこに置かれたとありました。神は、このような人間、土から造られた者アダムを、ご自分が設けたエデンの園に置かれたのです。元来私たち人間は神が造られた楽園に置かれているのです。

  エデンとは、元の意味は喜び、楽しみを表わします。なぜエデンは喜びや楽しみであるのか。それは神の働きが恵みに溢れているからで、人間がこの園に置かれる事を信頼し、喜び、楽しむためです。喜びはレジャーではありません。生きることの喜びが満ちているようにエデンを作り、そこに人、アダムを置かれたのです。生きること自体が喜びであり歓喜なのです。

  人間の定めはこの神の世界において生きる事です。自分で作った人工的な世界の中で生きるのではありません。それは結局自分の首を絞めることになります。また、被造物である人間は神が造った他の被造物と共に生きるところに生きる値打ちがあります。そこに人類の祝福がある。動物と共に共存することは危険もあるが、動物を世話し、慈しみ、治め、彼らと共に生きて守る楽しさがあります。しかしその中でも一番重要なことは、神が造った隣人と共に生きることです。人間仲間として生きることです。隣人愛をもって人と共に生きる。それが私たちアダムが置かれている喜びの園エデンです。

  今日は人間について創世記から色々と考えさせられました。祈りましょう。



         (完)

                                         2018年4月29日



                                         板橋大山教会  上垣勝



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