ここに極まる神の愚かさ


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                                          無に等しい者を選ぶ神
                                          Ⅰコリント1章26―31節


                             (序)
  今日は、「無に等しいものを選ぶ神」という題です。神は、「無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれた」とありましたが、これは暗いイメージでしょうか。明るさがないでしょうか。

  いや、ここには何と力強い慰めがあり、神の恩寵が漲り溢れていることかと思います。口語訳は、無に等しい者、無きに等しい者を「敢えて」選んで下さったとなっていました。「敢えて」と言わざるを得ないほど、ここに私たちの喜びがあり、最も大きな誇りがあると言っていいでしょう。著者のパウロは、神に心からの感謝を何とか表わしたいとの思いでこう書いたと思います。

  コリント教会が生まれ、パウロが去ってから暫らくして、知恵を誇る者や家柄を誇る者、能力を鼻に掛ける者などが出て来て、教会が一つの心になって歩むことが出来なくなったのです。人々が集まっているものの、メインな人たちはそうでなかったでしょうが、互いに競争して張り合う場のようなものが生まれていたのです。

  その事は10節以下で、私はパウロにつく、私はアポロに、私はキリストにつくと、教会の中に仲良しグループを作り、本人は意識しなくても教会の人たちの仲を裂くグループが生まれたからです。それで彼は10節で、「兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストの名によってあなたがたに勧告します。皆、勝手なことを言わず、仲たがいせず、心を一つにし、思いを一つにして、固く結び合いなさい」と勧告したのです。当然の勧告でした。教会はそんな場所でないからです。

  教会はキリストにおいて1つです。株分けというのはありますが、キリストの体を2つ3つと分けられないように、教会を幾つにも分けることはできません。分けてはならないのです。分ければキリストの教会になりません。教会の中で、仲良しグループが生まれ、例えば他の人と席を一緒にしない。ことある毎に仲良しさんとくっついて座る。また仲良しさんの味方をする。「汝の敵を愛せよ」、どころではなくなる。こうなると教会に実に嫌な空気が漂います。私たちの今の教会はそうではありませんが、こうなればキリストの救いの爽やかな空気が入って来て、私たちを新鮮な思いへと駆り立てる教会ではなくなるでしょう。教会を仲良しグループと勘違いする人が時々いますが誤解です。それは神の教会でなく、人間の教会です。目を向ける方向が違っています。パウロはそれに断じて反対しました。

  教会へのそういう誤解のためコリント教会に色々な問題が起こり、パウロはこの教会の創立者ですが非常に苦労し、血みどろになってコリント教会に幾度も手紙を送るはめになったのです。

  今日の個所でも、むろん彼の頭には、私はパウロに、私はアポロに、私はキリストにつくと言った仲違いのことも考えつつ、あなた方はいったい何者かと問い、キリストは「無に等しい者、無きに等しい者を選んで下さった。」この事を誇ろう。「誇る者は主を誇ろう」と結んでいくのです。

  先週は、昔、信仰を育てられた鈴木正久牧師のことをご紹介して、先生のお母さんは、教会がどんな牧師になろうとずっと1つの教会につながり、誠実に仕えて行かれたと紹介しました。

  ここにあるクリスマス・ツリーゴールドクレストの木ですが、ツリーは普通、モミの木を使います。歌にあるようにモミの木は「いつも緑」だからで、年中緑色を保ち、緑は真実や誠実を象徴して、神の永遠に変わらぬ愛と、その愛への私たち人間の変わらぬ信仰の応答の徴になります。洗礼を受けた後、紆余曲折あっても、実際色々ありますが、何があっても教会から離れず、ずっと信仰の灯を絶やさずありたい。キリストに誠実でありたい。そんな思いもモミの木に込められています。

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  さて、「兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のいい者が多かったわけでもありません」とありました。

  洗礼を受けた頃の自分を思い起こして見なさい。すると、人間的、この世的な標準から見て知恵のある者が多かったわけでなかった。能力があり、社会的影響力を持ち、家柄の良い高貴な家の出や、社会的地位の高い人が多かったわけでもなかったではないかというのです。実際そうだったのでしょう。だが洗礼後何年か経った今は、信仰の誠実さを日常でも生きた結果、社会的にも一目置かれる人間になったかも知れないが、それはイエスがそこまで育てて下さったからでなかったか。そう語るのです。

  あなた方がキリストに召されたのは、イエス様の方に特別な目的があったからで、その者が自分を大したものだと誇っていては、イエスに選ばれた意味がなくなる。神が何故、自分のような低い者を選ばれたのかを、よく考えて見なさいと言うのです。

  緑のモミの木のことを申しましたが、長年教会につながるのは人間の力ではありません。能力を自負する人は却って長く続きません。力でなく、キリストにどれだけ信頼を置くかだけです。堅く信頼するとキリストが持ち運んで下さるのです。また用いて下さるのです。

  お正月にあちこちから年賀状を頂いた方もあったでしょう。牧師が一番嬉しいのは、昔洗礼を授けた人が、その時はそんな方になるとは思わなかったのに、何十年も教会につながって、いつの間にかその教会のなくてならぬ人になっておられる事です。そんな方々から年賀状を頂くのは最高の喜びです。所が不思議ですが、そういう方々は大抵、自分は何も取り柄がないからとか書いて来られます。実際には立派なことをしたり、教会学校を長年支えたり教会の大黒柱、職場でも大黒柱ですが、取り柄がない者がイエス様に用いられたと感謝に生きておられるのです。不思議です。

  別の方面から言えば、いつも信仰の初心に戻っておられるからでしょう。今日の言葉で言えば、「神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。 また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです」ということでしょうか。でも、ご自分は、「知恵ある者に恥をかかせるため」とか、「地位のある者を無力な者とするため」などと、大それたことを少しも考えておられません。ただ、自分のような「無に等しい、卑しい者」をお選び下さったと初心の喜びを失わず、信仰の初心を貫いておられるだけです。

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  ただ、パウロの見ている所は、今申しました人たちとは少し違った視点です。それは、「神は知恵ある者に恥をかかせるため…、力ある者に恥をかかせるため…、また、神は地位のある者を無力な者とするため…」などと語って、「それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです」と語ります。

  教会ではこの世的な誇りは取り除かれています。誇りが砕かれていればいるほど教会の空気は爽やかです。イエス様が、「あなた方は『先生』と呼ばれてはならない」、特に「『先生』と呼ばれることを好む」という学者のような態度であってはならないと言われたのは、このことです。むろん賜物や働きは違いますから為す事柄は違うでしょう。だがこの世的差異が自由に越えられ、学があるとか金持だからと言って接し方が変わるのでなく、キリストの一人の兄弟姉妹として公平に接することが教会で大事です。

  ところで、ギリシャ社会の人たちに宛てているわけで、「世の無学な者」とは、ギリシャの有名哲学者の門下生であったりしない者、いや、学問をしたこともない人たちです。「世の無力な者」は、家柄の知れない者、家系図を持たない者です。「地位のある者」とは、重要人物とか大物の意味ですが、「身分の卑しい者」とは凡人や普通のありふれた人です。「見下げられている者」とは、周りから軽蔑的に見られている人のことです。

  キリストは身分や学歴から見るのでなく、一人の人間としてあなたをご覧になる。だから、他人があなたをどう見ようと、あなたは神に選ばれた者として存在する。神に目を注いで生きよう。私たちは自分の信仰の原点にいつも立ち帰って、神が御目を注いで下さった事を大事にして進もう。たとえ人が変わり、時代が移っても、私たちはただ一人、私たちを救って下さった方との関係の中で生きよう。「誇る者は主を誇れ。」これを日々の信条にして生きて行こう。「神は知恵ある者に恥をかかせるため…、力ある者に恥をかかせるため…、また、神は地位のある者を無力な者とするため…」に、私たち無に等しい者をお選び下さったのです。この事を喜び、感謝し、誇ろうではないかと、パウロは呼びかけたのです。この呼びかけは、かなりの人の心に届いたに違いありません。

  当時のことははっきりしませんが、この約1600年後、カトリックから独立したプロテスタント教会の信徒たちは、禁欲の倫理に生きていました。禁欲というと今日の人に誤解が生まれますが、彼らはその職業を通して神の栄光を表わそうと勤勉に働き、貯蓄に励み、奉仕に励み、質素に生きました。その中心は、一切の働きを「神の栄光のために」する。「誇る者は主を誇れ」という考えであり、それを実生活で手堅く生きたのです。これが禁欲の生き方です。この手堅い「神の栄光の為に」という生き方が資本主義を生んで行きます。資本主義はやがて信仰の精神から離れますが、資本主義が産声を上げた頃の精神的に健全であった時代を開拓したのです。


  パウロは、ここにある、知恵のある者、能力のある者、家柄の良い者、地位のある者を全く否定しているのではありません。そうではなく、彼らがそういう浅いもので誇るのでなく、ただ「主のみを誇る」というもっと深い所に生活の根を下ろして生きるようにとのことです。上辺の繁栄や栄光でなく、私たちの生活の中心にキリストを据(す)えることです。そういう単純な素朴な生き方に徹するように勧めたのです。

  それは、十字架に架けられた神の子キリストという、知者には全く愚かな福音の上に立つことです。神は福音宣教の愚かな手段で信じる者を救おうとされ、私たちはその宣教によって救われたからです。十字架です。神の愚かさはここに極まります。この愚かさに驚くべき神の力が潜んでいます。

  神の愚かさである十字架が、悩みや罪や重荷で苦しむ私たちを受け留めるだけの逞しい力を持つからです。心の苦痛に痛む私たち、傷を負い真剣に悩む私たち、苦しくて、悔しくて、無念さで極まりない者。すべて重荷を負うて苦労している者を、十字架のキリストは両手を広げてしっかり受け留めて下さるのです。神の愚かさ。ここにこそ私たちを決して裏切ることのない真実があり、永遠に信頼できる真理があります。

  丁度20年前です。北アフリカアルジェリアで、クリスチャンという名前のカトリックのブラザーが同僚6人と殺されました。彼らは、あらゆる宗教を越えて全ての人を愛される神の愛を証し続けました。しかし退去を命じられ、でも修道院を去りませんでした。(J.バニエ)。言葉でなく身を持って、宗教のいかんを問わず神は全ての人を愛されることを証しようとしたのです。だが容赦なく殺害されました。

  誰がこんな愚かなことをするでしょう。ジャーナリストは報道しますが、危険を避けます。だが彼らは民衆の中に生き、身を持って宗教を越える神の愛を証しました。その愛は実に愚かに見えます。だが彼らは神の愚かさの方にかけたのです。

  一粒の麦は地に落ちて死ななければ、ただそのままである。だが死ねば多くの実を結ぶ。イエスは人々から嘲けられ、磔(はりつけ)にされ、ボロクソニ言われて殺されました。だが、イエスは「彼らは自分が何をしているのか知りません。彼らをお赦し下さい」と祈られました。こうして、世界の最も良い肥やしになられたのです。無残な死ですが、この肥やしがなければ人類は今頃どうなっていたでしょう。紛争に次ぐ紛争、火に油を注ぎ、紛争をかき立てる憎悪の連鎖は今より何十倍も炎を大きくしていたに違いありません。

       (完)

                                            2017年1月15日

                                            板橋大山教会 上垣 勝




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