神の愚かさ


                        リヨン美術館(35)         右端クリックで拡大
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                                                神の愚かさ (下)
                                                Ⅰコリント1章18‐25節



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  「先日、あの人夫の父親が訪ねて来た。父親は、息子が教会にご迷惑をかけている事は分かっていたが、自分も天竜川の砂利取り人夫で、貧しくて1日も休めないので、今日まで挨拶に来れなかった。息子はあの通りの人間で、子どもの時に脳膜炎をやって精薄になり頼りにならないが、近頃は教会にすっかり夢中になって、暇さえあれば教会にお邪魔していた始末でした。しかしこの頃は余り暮らしが苦しいので、あれの妹を豊橋へ遊女に売ることを話した。幾らバカでも長男だから、一応話をしないといけないと思って話したのだが、そうしたらあれが、『俺は今は教会に通っている人間なんだ。教会へ行くだけが俺のただ1つの楽しみなんだ。その俺の妹が女郎になんか売られたら、俺はもう教会へは顔向けできない。だが、教会へ行けないくらいなら俺は死んだ方がましだ。それだから手前らを皆殺しにして、俺も死ぬんだ。』――こう言って出刃包丁を振り回して暴れ回った。やっと取り沈めたが、あれは家出してしまった。こんな次第で、……父親は涙ながらに話した。」

  「ところがね…」と牧師の話はまだ続きがあった。「先週、井通村の1人の青年が来てくれと言うので行ってみた。街道沿いの農家の裏部屋に、2、3年前から結核で1人で寝ている青年だった。彼は、半年ほど前から、日曜の夜10時過ぎになると、自分の家の裏の会堂を東から西へ大きな声で歌を歌って通る人がある。自分は教会もキリスト教も知らないが、その歌を聞いて『あれはキリスト教の讃美歌だ』と思った。それ迄寝たっ切りでとても寂しかったが、それから日曜の夜になると、その歌を聞いてそれがとても心の慰めになった。ところがここ1カ月程その人が通らなくなった。友達に話したら、お前がそんなにキリスト教の歌を聞きたいなら、町に行けば教会があるから、そこの牧師さんに頼んだら来てくれない事はあるまい。俺が頼んで来てやるよ……。こういう次第で、牧師さんはその青年に聖書の話をしてやり、讃美歌を歌ってやり、これからも訪ねて行くつもりだ……。

  バカの1つ覚えという言葉通り、あの人夫は教会で覚えた歌をずっと歌い続けて、真っ暗な8キロの夜道を一人歩いて帰っていたわけなのである……」(鈴木正久著作集第4巻)

  長々ご紹介しましたが、「神の愚かさ…」とか、「宣教の愚かさによって信じる人を救うことにした」とありましたが、神はこの砂利取り人夫を通して暗い世の片隅で寝ている人に神の言葉を伝えようとされたのです。同時に恵まれぬ病弱の青年の真実な在り方によっても、神は福音をこの世に伝えようとされたのです。

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  教会では、「献身」と言う言葉をよく使います。本来はキリストに身を献げること、伝道に献身し、神に献身することを言い、献金も献身のしるしだと言います。今では、一般社会でも何かに献身的に関わると言ったりします。

  献身とは、自分を与える生き方です。ズバリ言えば、愚かさに生きることです。それはキリストから来ます。報われないかも知れない。だがそれに尽くすのです。受け身で生きるのでなく、積極的、能動的に与え、仕える生き方、受けるよりも与える方が幸いであると言う生き方です。

  アブラハムは、「望みえないのに、なお望みつつ主を信じた。それで多くの国民の父となった」と書かれています。彼は愚かさに生きた人です。「子供のように神の国を受け入れるのでなければ、誰も神の国に入ることは出来ない」ということも、愚かさを生きることです。信仰はレディ・メイドの生き方ではありません。恐れや自信喪失で無力になってしまわないで、イエスを信じて、与えられた課題を、キリストが授けて下さった機会だと信じて打ち込むことです。「愚かに」思えたにしても。その時、道が拓かれます。楽(らく)しようなんて思っちゃあならない。神の愚かさは人より賢いとありますが、キリストが出し惜しみせず愚かさを生きられたから、私たちも愚かさを生きるのです。

  私たちが秋に1万枚のチラシを各戸に配布するのも、愚かです。神は賢い手段でなく、愚かな手段で信じる者を救おうとされたからするのです。自分の心にも世界にも、聖霊が働き、導いておられることを、勇気を持って信じて行くのです。信仰は愚かさに生きる行為です。

  創世記24章に、リベカの物語があります。彼女は何と清純、大胆で素晴らしい女性かと思います。彼女はイサクの妻になるためにアブラハムの僕について何百キロも離れた未知の地に行くかどうかを聞かれて、間髪をいれず「はい、まいります」と潔く、未来を信じて歩み出します。あそこにも信仰の愚かな姿があります。

  「神の愚かさ」。この事を考えつつ次の1週間を過ごしましょう。

     (完)

                                            2017年1月8日




                                            板橋大山教会 上垣 勝




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