新年にからし種から考える


                       リヨン美術館(31)        右端クリックで拡大
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                                                 小鳥らが巣をかける木 (下)
                                                 マタイ13章31―32節



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  今朝の元旦の新聞に、「ハッピー・ニュー・イヤーズ」とありました。普通はハッピー・ニュー・イヤーですが、イヤーズです。イヤーズは両耳です。よい新年をでなく、「新しい幸いな耳を Happy new ears」とコラムに書いていました。今年こそ、人の心に耳を傾ける幸いな耳を持たなければならないと思っていると、ドアホンが鳴りまして、礼拝にまだ時間がありますが知らない人が訪ねて来ました。

  どなたかと玄関に出たら、沼津の人で、東京に来たがお金を使い切って戻れない。鈍行だと2、3000円だから、貸してくれないかと言うのです。この教会はお貸しないことに決めていると言いましたが、色々話しをする中で、自分が捧げようとしている今日の礼拝献金を少なくして貸してあげようと思いました。Happy new ears ですしね。

  これまで何十年かを合計すれば20万円は貸しましたが、99%戻って来た覚えはありません。私は貸すのが嫌と言うより、家内から叱られるのが嫌なんです。でも今日は元旦で、これから礼拝でしょう。つい気が緩みました。足元を見られたかも知れません。

  今年は一体どんなことが起こるのでしょう。楽しみです。

  さて、「天の国はからし種に似ている。人がこれを取って畑に蒔けば…」とありました。イエス様は、身近な所で日常的に起こっている事をよく観察されました。人の暮らしを大切になさった態度がそこにあります。それで、天の国、天国の譬えを語る時も、麦畑の様子、主婦たちのパン作り、また漁師が投網を打つ姿や、網に掛った魚などを譬えに取り入れて語られたのです。

  からし種は極めて小さいです。長く来ている方にはお見せしたことがありますが、当時、どんな種よりも微小な種と考えられていました。ゴマの20分の1か、50分の1ほどの小ささです。私も小さな取るに足らぬ存在ですが、フッと軽く吹くだけで飛びます。地面に落ちれば見失います。誰も一粒のからしダネなどに注意を払いません。ここでは単数で書かれています。鼻もひっかけません。

  中には数億円、数十億円を稼ぐ人間もいますが、そういう人は百万円とか数百万円の稼ぎの人をどういう目で見ているでしょう。人間が試されています。

  だがからし種の種は命を持っています。死んでいません。保管が良ければ数年後でも蒔かれたら芽を出す命を持っています。

  彼らに命があるのは、畑に蒔かれて発芽する時を忠実に待っているということです。静かに、焦らず、誠実に待っています。待つ事は何でも、大山のラッシュ時の踏切でも、イジイジして忍耐を要します。

  ただ彼らは、蒔かれずに、やがて何年経っても芽を出さぬことになっても、むろん何も言いません。愚痴も苦情も言わず非難しもしません。しかし、からし種は芽を出す日を待っている事実に変わりありません。

  「人がこれを取って畑に蒔けば」とあります。条件が揃えば必ず発芽するでしょう。ただ芽を出す前に、小鳥についばまれる危険があります。種は自分で身を守るすべを持ちません。だが芽を出すためには恐れていてはならないのです。勇気を持って一歩を踏み出さなければなりません。私たちも勇気を持って神の御手に身を委ねなければなりません。箱に入れて、大事に自分を取っていては、大きく育つものも育ちません。一歩踏み出さなければ何も起こりません。

  さて、恐れず蒔かれました。だが、芽を出して大きく育つには時間がかかります。ここでも待つことが必要です。待っていると、「どんな種よりも小さいのに、成長するとどの野菜よりも大きくなり」、夏には空の鳥が来て枝に宿り、巣を作って雛を育てるほどの木になるのです。ほぼ4m、家の屋根の高さになり、淡い紫の小花を沢山つけます。

  「巣を作る」とあるのは、宿営する、テントを張るという意味の言葉です。小鳥がテントを張る訳でありませんが、そんな言葉が使われています。仮の宿を意味しているかも知れません。

  天の国、神の国の働き、神はと言ってもいいでしょう。神はみすぼらしく、極めて小さな取るに足りないものをも育てて下さるのです。またその枝に小鳥たちを宿し、彼らが安心して巣をかけ、雛をかえし、巣立って行く、大切な場を提供します。植物が動物、この自分と異質なものを育むのです。神の国の命、その生命力、そして空の小鳥たちを宿すことになる力は、人が作り出したものではありません。

  知らないものを受け入れることは色々面倒なことや、邪魔臭いことが起こるものです。異質な人を受け入れるって衝突も起こって大変なこともあります。だが小鳥たちを受け入れることで、全く知らない事が起こり、思いがけぬ所に種子が運ばれ、そこでからし種の子孫が育つことになります。そういう神の自然の命の循環、サイクルの中で生きることです。

  実際にはからし種より小さい種が他にあるとか、もっと微細なキノコの胞子も一種の種だから、からし種が一番小さいと言えないなどという議論ではありません。そんな事でなく、大事なのは、神の国の働きです。小さいが、命がある時、思いがけぬものが大きく成長して、私たちを驚かせる神の国の命の力のことです。

  教会の成長はまさにそのような姿をしています。蒔かれた時はイエス・キリストただ一人でした。たった一人です。だがそれが12弟子たちに広がり、更に大きく成長して、やがて地中海全域にに広がり、更に信仰の種が世界中に運ばれて、各地で育ち、花咲かせ、今も実をつけています。

  申し上げたいのは、イエス様は、私たちが出世し、成功するように召されたのでなく、神に、み言葉に忠実であるように召されたのです。種は成功と繁栄でなく、与えられた命に誠実であり、忠実であること。神の御心に添おうと生きること、それが空の小鳥たちを宿すことになったのです。


     (つづく)

                                            2017年1月1日



                                            板橋大山教会 上垣 勝




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