恋人は最高の愛を喜び与える
ルノワール①(ルーヴルにて) 右端クリックで拡大
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大空を仰ぎ、神を想う (下)
詩編19編1-15節
(2)
次に8節から11節です。ここでは物理的な世界、大空や太陽の活動などを熟考することから一転して、私たちの内なる太陽と言うべきものに目を向けます。すべての人類に授けられている善であり、良識であり、良心、思慮分別です。この分別に従うなら、全人類は熱を与えられ、光を授けられて生きることが出来るのです。良い耳を持って素直に聞かなければなりません。悪くとったり、歪んで取っちゃあいけません。良心が歪んではいけません。それが神のご計画であり、神のご人格を映し、反映しているというのです。
「主の律法は完全で、魂を生き返らせ、主の定めは真実で、無知な人に知恵を与える。主の命令はまっすぐで、心に喜びを与え、主の戒めは清らかで、目に光を与える。」
自然の美しさと同様、全ての人に、神はご自分の何かをお伝え下さっているというのです。太陽や雲や大空と同様、だが同次元でなく、もっと高い精神的次元で、神の恵みの反映として与えて下さっているものがあるのです。
パウロがローマ書2章で、神は全ての人の心に神の律法を送り、人は心に書き記された律法を持っていると語ります。心に書き記された律法に、誠実であり、忠実であるかどうかはその人の責任なのです。
それはユダヤ人に、モーセの十戒という形で授けられました。その中心は神の愛です。主の律法、定め、命令、戒め、主の裁きなどとあるのがそれです。これは天に示される沈黙の言葉と比べれば、遥かに本質的で、重要で、神の源に根ざします。自然は人間の傍にありますが、主の戒めは本質的で深く人の魂に結合するのです。ですから、魂を生き返らせ、知恵を与える、心に喜びを与え、目に光を与えて、蜂の巣の滴りよりも甘いなどと語られるのです。
最初の7節までは、どこにも主という言葉は出て来ません。しかし8節以下で、6度も主という言葉が現われて、主なる神がこれらの恵みを与えて下さると明言します。
それにしても、「主の律法、定め、命令、戒め、主の裁き」などは、掟である限り、誰しも余り気持ちいいものではないでしょう。父や母の厳しい躾(しつけ)やムチ、折檻(せっかん)を思い出す方々があるかも知れません。主なる神が命じられるのは、規則と義務に絶対服従だと考える限り、確かにそうです。命令口調の人を避けたいのは、自由が縛られかねないからです。指示的な言葉に人は反発したくなり、出来れば最小限の服従だけで済ませたいと思います。掟の下に置かれるのは嫌です。魂を委縮させ、自由と喜びを奪うからです。
しかし、神が望んでおられるのは、詰まる所、神の愛を受け入れ、互いに愛し合うことだと言うことを、初めに戻ってもし深く理解するようになれば、様子は一変するでしょう。それは、恋人たちのようになるかも知れません。どう言うことかと言うと、彼らは最小限のものでなく最大限のもの、最高の愛を喜んで差し出したいと願うからです。ですから私たちが神の愛に本当に気づけば、神の命令が溢れる喜びとなり、希望の徴になり、自由、解放を授けるものにすらなり、感謝に溢れるものとなり、まさに目に光を与えるもの、生きる喜びと価値を授け、魂を生き返らせてくれ、蜂の巣の滴りよりも甘き、最高のものに変わるでしょう。(Taize Bible Meditation)
(3)
最後にこの詩編は12節以下で、自分の個人的な事柄に戻って、自省しています。それは素晴らしいことです。なぜなら、どんなに美しい神の業であっても、自分の生活や存在と無関係であれば価値は半減します。しかしこの信仰者は神の創造のみ業、そして神のみ言葉を自分自身に向けて黙想するのです。
「知らずに犯した過ち、隠れた罪から、どうかわたしを清めてください。あなたの僕を驕りから引き離し、支配されないようにしてください。そうすれば、重い背きの罪から清められ、わたしは完全になるでしょう。」知らずに犯した罪、人の目にも、神の目にも隠そうとしていた罪から私を清めて下さいと、深く自分の内面を省察するのです。特に驕りから自分を引き離し、それによって支配されないようにして下さいと願うのは、油断するとそれに支配されるのが自分であることを知るからでしょう。
この信仰者は未だ完全ではありません。だが完全に向かって背を伸ばしそれを捉えようとしています。地上で私たちは完全になれる筈はありません。しかし不完全な中に、それを追い求めている姿の中に、真実な、雄々しい、美しい前向きの姿があります。
それは、自分の犯した過ちや罪に目を留める形で語られています。ただ彼あるいは彼女は、自分が犯した罪意識に中でそれに耽(ふけ)っていません。それに囚われ、飲み込まれ、落ち込んで行きません。この信仰者は、神がどんな意識的、無意識的な罪であっても、必ずお赦し下さると信じ確信するからです。たとえ極めて重大な過ちであっても、お赦し下さると信じ、委ね祈るのです。
最後の言葉は、この信仰者の心の中での素晴らしい神とのやり取りです。「どうか、わたしの口の言葉が御旨にかない、心の思いが御前に置かれますように。主よ、わたしの岩、わたしの贖い主よ。」
どうか、私の口の言葉があなたのお心に叶(かな)いますように、また私の心の思いが御心に留められ、み前に置かれ、喜ばれますようにと語り、最後に、非常に個人的な信頼の言葉を省略形で述べます。
「主よ、わたしの岩、わたしの贖い主よ。」主よ、あなたの栄光は天において、全世界において現わされています。あなたの善と公正さは、律法においてあなたの民に現わされました。神は、私を断固として巌のように固くお守り下さるお方です。私を罪の中から贖い出して下さるお方であります。あなたのみ名を、力を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くしてほめたたえます。
私たちに、このような信仰と人生の先輩、信仰の友が与えられているのは、何と幸いなことでしょう。
(完)
2016年2月28日
板橋大山教会 上垣 勝
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