悪も逆手(さかて)に取る



                           ヨルダン川で洗礼
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                                                     大胆に語る (中)
                                                     使徒言行録4章23-31節


                              (2)
  さて彼らは、「主よ、あなたは天と地と海と、そして、そこにあるすべてのものを造られた方です」と祈り始め、神はダビデの口を通し、聖霊によってこうお告げになりましたと、詩編2篇の、「なぜ、異邦人は騒ぎ立ち、諸国の民はむなしいことを企てるのか。 地上の王たちはこぞって立ち上がり、指導者たちは団結して、主とそのメシアに逆らう」という言葉を引用して祈りました。

  「異邦人は騒ぎ立ち、諸国の民はむなしいことを企てるのか」という言葉は、ローマ総督ピラトとローマの兵たちを示唆しています。「 地上の王たち」というのは、ヘロデ王らのことです。「指導者たち」は、祭司長たちや長老たちのこと。「主とそのメシア」は、神とキリストを指していると解釈したのです。即ち、強大な政治的社会的権力が総出で、民衆と一緒になって、キリストを十字架に付けることを、ダビデは預言していたと語ったのです。キリストを中心にした旧約聖書の信仰的、霊的な解釈をしたと言ってよいでしょう。

  そして28節でこう祈りました。彼らは、「実現するようにと御手と御心によってあらかじめ定められていたことを、すべて行ったのです。」

  異邦人も同国人も一緒になって、神が油注がれた聖なる僕、ナザレのイエスに逆らって十字架に付けました。だがこれは、神様、あなたが予め定めておられたことです。あなたの御計画が彼らの反抗によって実現したのです。あなたは、彼らの反抗を逆手(さかて)にとって御心を成就なさったのですという意味です。

  そうです。神は敗北をも勝利へと導いて下さる方であり、躓(つまず)きをも前進に役立てて下さるお方です。火中のクリを拾うようにして、弱さや傷や挫折や敗北に見えたことも、歴史の中で再び取り上げ、復活させて生かして下さるのが、世界の歴史を導かれる主なる神です。

  イエスを殺した人々は神の道具となって用いられたのです。イエスの死は決して神のみ旨と別の所で行われたのではありません。彼らの悪の行為をも逆に用いて歴史を進めて行かれるのです。私たちの身辺に起ることも、そういう所があります。今の逆境も試練も、勝利に至るプロセスにあることを知る人は、神を信頼して未来を落ち着いて眺めるでしょう。

  このように語って彼らは、「主よ、今こそ彼らの脅しに目を留め、あなたの僕たちが、思い切って大胆に御言葉を語ることができるようにしてください。どうか …」と祈り続けました。

  先程申しましたが、弟子たちは事態の深刻さを過剰に反応したのではありません。また安易に慰め合ったのでもない。現実をその重さのまま受け留めて神に祈りました。楽観でもなく悲観でもなく、神に祈った。

  具体的な現実に根差しているので、その祈りは空(くう)をさ迷いません。「今こそ彼らの脅しに目を留め、あなたの僕たちが、思い切って大胆に御言葉を語ることができるようにしてください。 」大胆に、恐れることなく、余すことなく語らせてください。圧力をはねのけ、口を閉ざすことがないようにさせてください。

  当時はキリストを信じる者はまだ一握りの少数者です。からし種のような極めて小さい教会です。しかし今、社会の表舞台に登場し始めたのです。今日の個所はまさに蛹(さなぎ)が蝶になって飛び立つ寸前のことが活写されています。そして蝶になるや、キリストに現わされた神の恵みを、大胆に、何も恐れることなく語り始めるのです。

  彼らの祈りは、ユダヤ当局の迫害からお守りくださいと言うものではありません。脅しに目を留めて下さり、私たちに思い切って大胆にみ言葉を語らせて下さいと、保護されることだけを求める受け身の信仰でなく、外に打って出て証しする信仰。守りの姿勢でなく積極的に前進する信仰です。

  しかし元の彼らは、私たちと同じように弱い人間でした。脅しを受ければ、凹まざるを得ない、悩んで、ビビらざるを得ない人間でした。しかし、弱さを熟知する故に、神によって思い切ってみ言葉を語ることが出来るようにして下さいと、神に寄り頼んだのです。それでいいのです。

  私たちを遥かに超えるお方に寄り頼む時、私たちの限界を越えた、限界の先から神がお働き下さるのです。自分の知らぬ力が出始めるのです。

  自分たちは罪の多い、弱い人間です。いつまでもそうかも知れません。だがその弱い罪ある人間と気づいている人が、却(かえ)って神に用いられて行く。それは自分の中に基礎を持つのでなく、自分の中には全くと言っていいほど基礎を持たない者であるが、ただ神からそれを受け取り、神から力を授けられるのです。

  「思い切って大胆に」とは、厚かましくなることではありません。人を憚(はばか)らず、大胆に最後まで神の恵みを語ることです。


        (つづく)

                                             2015年5月24日


                                             板橋大山教会 上垣 勝



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