望まない悪をする衝動


                    ノートルダムの入口レリーフ(自分の首を持った聖人)  右端クリックで拡大
                              ・


                                                   涙を流すイエス (下)
                                                   ルカ19章41‐44節


                             (3)
  さて、「敵が周りに堡塁を築き、お前を取り巻いて四方から攻め寄せ、 お前とそこにいるお前の子らを地にたたきつけ、お前の中の石を残らず崩してしまうだろう」という言葉を、暫く思い巡らしたいと思います。

  ここには敵対する者たちの激しい憎悪が煮えたぎっていた筈です。憎悪を燃えたたせ、汗まみれになって攻撃の堡塁を築き、勝つか負けるかの死力を尽くした総力戦が行なわれ、城壁の一部が破られると鬨の声を挙げて城内になだれ込み、目にする者らを突き倒し、なぎ倒し、乳飲み子らを地に叩きつけ、乳飲み子を地面にぶつけるのですよ。妊婦の腹を切り裂き、情け容赦なく殺戮した。死力を尽くした総力戦では憎悪が燃えて何が起こるか分かりません。恐ろしいこと、おぞましいことが目の前で起こります。それが戦争であり、争いです。

  人間を甘く見ちゃあいけません。いつの時代でも、どこにおいても起こります。だからイエスは平和への道を説かれたのです。

  先週の火曜日は、テゼのブラザー・ロジェさんの生誕百年でした。私は、残された幾つかのインタビューのビデオを見ました。その中で、今日の個所にも関係するこんなことが言われていました。

  私たちは、自分に目を向けることが必要だと言うのです。どうして私たちの心に非理性的な衝動があるのかと自問しなければならないと言うのです。行なってはならない、だが自分をコントロールできないものを誰もが持っています

  毎週、薬物中毒からの回復を願っている人たちのNAの会に出ていますと、彼らは自分で自分がコントロールできないものとの苦しい戦いを毎回のように話します。負けそうになる戦いです。アルコール中毒からの回復を願う人たちもほぼ同じです。彼らの長い経験から、「その行き着く先は皆、刑務所、精神病院、そして死が待っている」(NAのパンフレット)からです。皆というと言い過ぎだという気がしますが、でもそれは甘いのかも知れません。医者は、薬物中毒は病気だと言います。確かに病気かもしれません。しかし、実は全ての人が自分の内側に湧き起こって来る衝動をコントロールするのは中々大変なのではないでしょうか。居ても立ってもおれない、したくてたまらなくなる欲望への衝動です。

  パウロはその事を、「わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか」と語りました。彼はイエスと出会ってこの罪と肉の桎梏(しっこく)からやっと救い出されました。

  非理性的な衝動。悪しき欲望。なぜ私たちの心に、内なる暴力性が宿るのでしょうか。そしてなぜそれが巨大な、手に負えないものに増殖するのでしょう。

  暫く前、私は家内が愛用する小型の掃除機を叩き割ったのです。叩き割ってふんずけて、長い棒をへし折りましたね。

  家内は足が痛い、重い掃除機を使うのは嫌だと言って、阿川佐和子が雑誌で賞賛し、超軽くて最高に使いやすいと笑顔で勧めていたコードレスの掃除機を買ったのです。しかし吸引力が弱過ぎるのです。そんな中、あの強力なダニに無数に噛まれ始めて毎日増えて行く。外泊を考えました。それで、もうこんな吸引力のない掃除機は捨てようと私は言うのですが、家内は聞かないんです。そんなやり取りの中で、病院に行っても中々治らず、痒くてたまらないダニへの腹いせもあり、ダニへの腹いせです。家内の強情さが頭に来たのもあり、遂に爆発して、叩き割ってしまったのです。叩こうと思いましたが家内の身体はぶたなかった。でもその時、自分の内にどんなに暴力性があるかを味わいました。すみません。それにしても非理性的なもの凄い衝動が私の中に潜んでいるので、気をつけて下さい。

  脱線はそれまでにして、他者を愛し他者のために生きるには、あなたたちは、私に根差さなければならないとイエスは言われます。キリストにあること、キリストに結ばれることです。衝動のコントロール。それは教育によっては達成されるものではありません。心の変化です。真実な愛に出会っての心の変化です。古代から現代に至るまで、いつの時代でもそうです。1600年前に書かれた古代の思想家アウグスチヌスの書物を読めば、この心の闘いは万人の中にあり、決して新しいものはないのです。彼自身、肉欲に耽った青年時代を回顧し告白しています。

  ナメクジを見ると鳥肌が立つような嫌悪感を覚える人は多いでしょう。私たち人間は他者に対しても忌み嫌うほどの嫌悪感を持つことがあります。私たちの愛は好きな人への愛で、嫌いになるや激しい憎悪へと悪化し、時に暴力性へと発展するのでないでしょうか。その暴力性は嵩じれば、憎しみ、戦争、殺人、そこにいる者たちを突き倒し、なぎ倒し、先ほど申しましたように、子どもをも地に叩きつけ、妊婦の腹をも切り裂き、死力を尽くした戦争になり、恐ろしいこと、おぞましいことを平気でするに至ります。内なる暴力性。それはあらゆるものを持ち運んで来ます。内なる暴力性、それは戦争まで行かない時もありますが、傲慢や横柄な態度、尊大さとなり、そんな言葉となり、「我々は常に正しい。間違っていない。我々は事柄を明確に見ている者である」と頑として語るのです。

  そういう頑とした態度を貫いてしばしば平和の道をわきまえないのです。エルサレムがそうだったのです。そしてイエスを殺していった。そういう二の舞を、私たちは個人の生活においても、国や社会においてもしてはならないでしょう。

  イエスは涙を流されるでしょう。そうです。他者との平和を創るには、自分の腹に根差していてはだめなのです。自分の腹に根差していると自分の腹にうごめくどうしようもない衝動が、欲望が巻き起こって来て、それにもてあそばれ、罪の衝動は死をもたらすのです。罪の終局は死であるとパウロが語っている通りです。

  だが、イエスに根差す。希望の源である方に根差す。この方に連結されて運ばれ、イエスに導かれる。その時にうまくいき始めます。教育ではこの問題はよくならない。悔い改めであり、イエスによって砕かれることであり、砕かれてイエスに委ねることによって、自分を越えて進むことができ、平和へと近づいて行くのです。

  祈りましょう。

        (完)

                                             2015年5月17日



                                             板橋大山教会 上垣 勝



  ホームページは、 http://www.geocities.jp/itabashioyama_ch/

  教会への道順は http://www.geocities.jp/itabashioyama_ch/img/ItabashiOyamaChurchMap.gif



                               ・