なぜ自分でなく、この人たちが


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                                          あなたの隣人とはーⅡ (中)
                                          ルカ10章25-37節

                                         ・説教などで引用される方は「コメント」を
                                          お残しください。


  (前回からつづく)

  サマリア人ユダヤ人とは民族が違います。同胞ではありません。双方は何百年にも亘り犬猿の仲です。今は韓流が流行っているからマスコミは犬猿だと言いませんが、これまでの日本人と朝鮮人の関係のようなのがサマリア人ユダヤ人の間にありました。

  ところがこのサマリア人は、「その人を見て憐れに思い、近寄って…」と、言われるのです。半殺しにされて倒れている人を見て、咄嗟に「憐れに思った」のです。「その人を見て憐れに思った。」これが彼の行動の最大の動機です。民族間の激しい確執という厚い壁を越え、しかも自分も襲われる可能性があるのに、また関わるとかなりの時間が取られるのに、憐れでならず、何とか助けてあげたいと切に思ったのでしょう。

  「憐れに思う」という言葉は、原文では、腸がねじれ、痛くなる程の強い感情を指します。

  祭司やレビ人とは反対に、彼は直ちに近寄り、旅の荷物から常備薬を取り出し、ぶどう酒で消毒し、油で傷を保護し、包帯をし、ロバに乗せて、急いで宿屋に連れて行って介抱したのです。

  互いの年齢は書かれていませんが、我が子のように愛しく思ったのでしょう。我が命のことなど考えなかったかも知れません。確かに親は子どものために、危険や貧しさを顧みず命を差し出すことがあります。彼は気が気でなかったでしょう。明日また旅を続けますが、明日を思い煩わずに介抱したのです。

  昔の旅は普通、早朝に立ちます。それにも拘わらず、一晩中タオルで冷やし、色々世話をし、一生懸命に看病したということでしょう。

  彼は手当てしながら思ったでしょう。少し時間がずれて、自分の方がひと足早ければ、自分が襲われていたかも知れない。そう考えて、この人が身代わりになってくれたことに思い至ったでしょう。で、彼は非常に済まなく思い、一層何とか助けてあげたいと思ったでしょう。

  ご存知の方があるかも知れませんが、神谷美恵子さんは、キリスト教の考えに立ちながら、ハンセン病患者の治療に生涯を捧げたことで知られる精神科医です。美智子妃の相談役などの逸話でも知られています。深い教養を身につけておられました。優しさと共に人に接して、人々に大きな影響を与えられました。亡くなられて30数年経ちますが、「生きがいについて」という本は、名著の誉れ高く今も多くの読者を持っています。

  伝道者であった叔父さんと、清瀬の多磨全生園を訪れた彼女は、目にした患者の病状に強い衝撃を受けて、この人たちへのある種の「召命」を感じたそうです。その中心は、「なぜ自分でなく、この人たちが」という衝撃です。こうして、自分が身を捧げる生涯の目的がはっきりとしたと語っています。

  善きサマリア人も、「なぜ自分でなく、この人が」というのと近い思いで介抱したでしょう。翌朝、宿を出る時、「デナリオン銀貨2枚を取り出し、宿屋の主人に渡して、『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います』」と言って出掛けたというのです。

  デナリオン銀貨2枚は、今の金額で2万円から3万円です。義理も責任もない人のために皆さん、2、3万円出しますか。費用がもっとかかったら、帰りがけに払いますと言えるでしょうか。

  お金があればできるというでしょうか。だが、金持ちでも案外ケチな人が多いものです。財布のヒモは普通の人以上に堅かったりします。しかし、このサマリア人は、デナリオン銀貨数枚を渡した上、帰りがけに余分にかかった分は支払いますと言ったということですから、彼もかなりの金持ちでしょうか。

  もし金持ちなら、彼こそ、追いはぎに襲われた人を見るや、一目散にここを通り過ぎるのが安全だったでしょう。こんな所でうろうろしていれば、自分も襲われて大金を奪われ、命まで落としかねません。しかし、彼は大金を持ちながら怪我人の傍に留まり、応急手当をし、ロバの背に引き上げ、括(くく)りつけ、宿に向った。彼は金銭など念頭になく、目の前の重傷を負っている人が不憫でならなかったからです。

  先程申しましたように、善きサマリア人を強く動かしたのは、「その人を見て憐れに思った」という激しい心の痛み、はらわたの千切れるような隣人愛の思いです。祭司、レビ人の冷たさでなく、その熱いものが彼を駆り立てたのです。

  この思いが一時的感情でなかったのは、翌朝、銀貨を差し出して介抱を頼み、帰りがけに費用が更に掛かれば自分が払うと言い残して出掛けたところから分かります。彼の思いは翌朝になってもいささかも変わらないのです。いや、もっと増えています。熱い愛、誠実さの持続があります。この持続が大事です。


       (つづく)

                                        2012年6月24日



                                        板橋大山教会   上垣 勝



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