希望の発信基地


                       リフォームが完成した板橋大山教会
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                                            今も、希望はある (下)
                                            ローマ4章18-22節



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  今日の聖書に、アブラハムのことが出て来ました。彼も、客観的にすっかり希望を失くす状況に置かれていました。100歳近く、妻も90歳近い。もう子供を授かる希望はすっかり消えました。

  ところが18節は、「彼は希望するすべもなかった時に、なおも望みを抱いて、信じた」、こうして、「多くの民の父となりました」と語るのです。彼は望み得ない状況にいたのに、なお望みつつ信じたのです。その結果、多くの民の父となったというのです。

  完全な絶望です。その中で取った彼の信仰、その行動。それが世界の民に希望をもたらしていくのです。行き詰り、絶望、逆境。だが、アブラハムにおいて、それが却って希望の発信基地になったのです。

  「希望を持って来い。」本当にそうだと思います。正直言えばそうです。しかしアブラハムは誰かに希望を持って来てもらおうと言うのでなく、「望み得ないのになお望みつつ信じた」、そして自ら希望をもたらす人になった。

  本当は、与えられた希望は本当の希望にはなりません。一本の細いロウソクでも灯して、自分が希望をもたらす人にならない限り、希望はなかなか来ません。  

  大震災のただ中に、昨年チリの落盤事故で、地下700mに閉じ込められた33人の鉱夫たちのリーダーであったウルズラさんの声援が届いたそうです。70日間地下に閉じ込められ、2日に1度しか食事を摂ることができませんでした。スプーン2匙のツナの缶詰め、ミルク2匙、そしてビスケット1枚。毎回33人は全員に配られるまで誰も手をつけなかった。

  その声援の中でウルズラさんは、「悲劇から抜け出すには、希望と信仰を持ち続けることです」と、何度も希望ということを語っています。「常に希望を持ち続けるのは難しかったが、それでも希望を全く失うことはありませんでした。」パウロは、「神との間で平和を得る時、…苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む」と書いていますが、ウルズラさんはこのことを言っているのでしょう。

  また、「生き抜くための鍵は、どんな時も、希望を持ち続け、闘い続けること。団結して、生きることをあきらめないこと。」「1からやり直せばいいのです。」「楽観的になって下さい。希望を失わないでください」ともありました。

  「生き抜くための鍵」は、「希望と信仰を持ち続けること」だと何度も強調していました。そして、ウルズラさんたちも絶望的な状況を経験して、希望を発信する人になりました。きっと三陸どん底の人たちも、もし希望と信仰を持ち続けるなら、やがて希望を発信する人たちになられるに違いありません。恐らくなられるでしょう。そうならなければならないと、苦難の中におられる方々に押し付けることはできません。しかし、そうなって頂きたいと思います。

  むろん多くの恐れがあるでしょう。悲しみは尽きず、怒りもあるでしょう。だが、それらとしっかり向き合って、それらを見据えつつ、「恐れることはない。私だ」と言われる方の前に、恐れ、悲しみ、怒り、そして希望を失っている自分のすべても持ち出して行く。その中で、まだ神からの希望が残っていることを発見することになられればどんなにいいでしょう。

  そしてこれは被災した方々だけでなく、私たち人間すべてについて言えることです。

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  翻って、アブラハムはなぜそのような希望を持つことが出来たのでしょう。直前の17節に、「死者に命を与え、存在していないものを呼び出して存在させる神を、アブラハムは信じ」とあります。

  彼は力尽き、望みは尽き果てました。だが、「死者に命を与える神」、「存在していないものを呼び出して存在させる神」によって、即ち不可能を可能にする方により望みを抱き続けたのです。まさにチリのウルズラさんの言うことです。

  22節を見ると、「それが彼の義と認められた。」その信仰が神によって受け入れられ、「よし」とされたとあります。

  「希望を持って来い。」確かに外から希望を持って来て欲しい状況でしょう。若い方々は経験がないでしょうが、井戸の水を汲み上げるには呼び水が必要です。呼び水は外から注がなければなりません。外から希望となり力となるものを持って行かねばなりません。しかしそれと同時に、希望はその方々の足元に既にあることも事実です。

  「希望するすべもなかった時に、なおも望みを抱いて、信じた。」これは豪快とも言える信頼です。アブラハムが多くの人たち父となり、希望となった源はそこにあります。

  ですから、このローマ書を書いたパウロは、コリント後書4章の方で、「私たちは四方から苦しめられても、行き詰らず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。私たちはいつもイエスの死を体にまとっています。イエスの命がこの体に現れるために」書いたのです。

  文語訳聖書は、「せん方尽くれども、望み失わず」と訳しています。「せん方」とは、「なすべき方法」や「こらえよう」です。「もはやこらえようがなくなってしまい、なすべき方法が尽きてしまった。だが希望を失わず」と言うのです。

  私たちに必要なのは、この希望です。

  コリント後書は、この希望は、私たちが「イエスの死」をまとっているからだと申します。イエスが私たちのために、十字架で釘づけされて殺された。この方の恵みの死、愛の死を私たちはいつも体にまとい、それによって励まされ、イエスの復活の命が体に現れるために待ち望みつつ終末的に生きている。そのために「どんなに為すべき方法が尽きてしまっても、望み失わない」というのです。イエスの死の中に私たちを励ます命が漲っているからです。

  幾つか聖書を引用して終わります。先ずは今日の交読詩編です。「神は私たちの避けどころ、私たちの砦(とりで)、苦難の時、必ずそこにいまして助けて下さる。」私たちの苦難の時に必ずそこにおられるのは、苦難の主、十字架の主です。「彼が負ったのは私たちの痛みであった」とイザヤ書にあります。この方が私たちの傍らにいてくださるから力になります。

  同じイザヤ書54章には、「山が移り、丘が揺らぐこともあろう。しかし、私の慈しみはあなたから移らず、私の結ぶ契約は、揺らぐことはないと、あなたを憐れむ主は言われる」とあります。「山が移り、丘が揺らぐこともあろう」とは大地震を指しているかも知れません。だが、決して神はあなたを見捨ることはないのです。

        (完)

                                        2011年4月3日



                                     板橋大山教会   上垣 勝


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