愛の洞察力を (下)


  
 
 
                                            
                                           フィリピ1章3-11節
  
  
                                 (3)
  9節で彼は、フィリピの人たちのために、「私はこう祈ります」という言葉で始まって、「知る力と見抜く力とを身につけて、あなた方の愛がますます豊かになり、本当に重要なことを見分けられるように。そしてキリストの日に備えて、清い者、咎められる所のない者となり…」と書いています。

  前の訳は、「あなたがたの愛が、深い知識において、鋭い感覚において、いよいよ増し加わり、それによって、あなた方が、何が重要であるかを判別することができ」とありました。私はこの訳の方が心にピッタリ入ってきますが、皆さんはどうでしょうか。

  パウロは、フィリピの信徒たちの愛が増し加わるように祈るのです。また、その愛が有効に最も適切に表わされるために、「知る力と見抜く力」、「知識と判断力」、即ち知識を伴う洞察力をもって表現されていくようにと祈るのです。

  私たちがキリストに従う時、善い事や立派な事を沢山、「もっともっと多くのものを行なう」という事ではありません。「もっと多く愛すること」へと導かれるのです。

  今日、私たちは「愛が冷える」時代にいるのではないでしょうか。物質世界や経済の世界は利益を求めて、愛は冷えています。役に立つ人や利益になる人には親切で、心が注がれますが、そうでない者にはかなり冷淡です。このような価値観がどうして忍び込んできたのか、いつの間にか功利主義的な価値観が支配的になりました。以前からそうだったのでしょうか。

  「もっと多くのものを行なう」ことから、「もっと多く愛する」価値観への転換。そこに私たちが幸福になる道があります。

  先週オバマさんが大統領に就任しました。その1週間ほど前に、彼は8歳と10歳の娘さんに手紙を出しました。それが公表されて、広く読まれています。それを読むと、娘たちへの思いやりに溢れています。お父さんは君たちに出会って――彼らがこの世界に生まれて来て――どう変えられたか、今、娘たちをどう思っているかを、愛情溢れた筆致で書いています。

  この愛の手紙は、2人に宛てていますが、同時に全米の子ども、そして世界の子供たちに宛てて書かれたものです。何しろ子供たちへの温かい愛が溢れていまして、一国の責任を負うとはこういう愛情と優しさ、哲学を持ってこそ、それにふさわしいのだと思いました。日本の国政に携わる人たちはこういう価値観を持っているのか、こういうことが書けるかと思います。しかし、彼らだけでなく、問題は私たちなのであって、私たちもこういう考えが根本になければならないと思いました。

  牧師にしたってそうだと思います。私の青年時代、浅野先生は時々、牧師は子どもの一人ぐらい犠牲になっても仕方がないというような意味のことを言っていました。なるほど、それほどの熱い使命感が必要なのだ。自分もそのように励もうと当時思いました。しかし今思うのは、果たして浅野先生はあれで良かったかと思います。旧約学者としては立派であったが、人間として歪んでいなかったかと思います。今、私は、子どもをしっかり可愛がらないで、どうして牧師になれようかと思っています。長い時間かかってそう思うようになりました。

  オバマさんは、なぜ自分は大統領選に出たのかを、8歳と10歳の子どもにも分かるように書いています。恐らく真の政治家というのは、子どもにもよく分かるように言えなければならないと思いました。そこには、彼の持つ気高い理念が如実に現われています。だから人の心を打ちます。社会は金儲けだけの場所でなく、愛と恵みが薫る場所にならなければならないし、政治家によっては社会をそういう所に変え得るのでないかと思いました。

  即ち、愛の洞察力を持って生きるようにとパウロが書いたことが、今、世界で最も必要とされているのです。大統領の就任演説の全文を読んで、私はそれを強く思いました。愛が伴う洞察力があるところに、格調高い理念が現われて来るのだと思いました。

                                 (4)
  パウロは「知る力と見抜く力とを身につけて」、他者を愛することが出来るようにと祈っています。「愛の洞察力を」です。洞察力をもって人を愛することです。それが一番大事です。

  「知る力と見抜く力」、それを自分のためだけに用いていく。それだと、利益の追求、合理性の追求、競争力の追及に汲々となって、愛が欠落した、精神的に貧困な社会が必ず生まれます。私たちの国は、余りにもそういう所に力を注いで来たのではないでしょうか。

  「真善利」という言葉があるそうです。真善美ならよく分かりますが、真善「利」です。私は最初、何を言っているのかと思いました。利とは利益の利です。これは、創価学会の3つの基本理念のようです。真と善が利において極まったのが創価学会と謳っているのでしょうか。だが、そのような所から、「愛の洞察力」は出てきません。出て来ても、それは自分の利益か、組織の利益かに過ぎません。今は国際化時代なのです。だが、これは村の利益の追求です。

  自己の利を越えるものでなければ気高くなりません。オバマさんの演説は、自己の利を越えようとしています。そこに多くの人を惹きつけるものがあります。

  イエスは「子どもじみたことをやめる時が来た」と言われました。オバマさんは、就任式でこの言葉を引用して、政治に携わる者は狭量な心をもったり、口約束だけをしたり、時代錯誤のドグマを語るのではダメだ。むしろ誠実と勤勉、勇気とフェアプレー、寛容さと好奇心、忠誠と愛国心などが必要だと語り、これは古い価値観だが真理である。これらは歴史を前進させる静かな力になって来た。必要なのはこうした真理に立ち帰ることだと語りました。

  彼は、知る力と見抜く力を身につけて、愛において、「本当に重要なことを見分け」ていると思いました。むろん世界を立て直すには彼一人ではダメです。世界が力を合わせなければ、彼一人の肩に背負わせても無理です。でも、彼は歴史に登場しなければならない必然の人として登場しています。

  パウロは信仰の言葉で語り、オバマは政治や社会の言葉で語っていますが、いずれにせよ、キリストに導かれて、鋭い感覚と洞察力をもって、愛において最も重要なものは何かを、見分けることが出来るように祈るのです。

  私たちも、このことを自らに祈ることが大事です。

  私たちはここでも、クリスマスにお話しした、「彼は暗闇を呪うことよりも、ろうそくを灯そうとした。そして彼の光と輝きが世界を明るくした」と書かれた、ルーズベルトの墓碑銘を思い出していいのではないでしょうか。

  パウロ自身、あの暗黒時代に、いつ死を迎えるか知れない獄中から、このような喜びの手紙、励ましの書簡を外の世界の人たちに出したのです。彼は暗闇を呪う人でなく、暗闇にローソクを灯す人でした。彼は、キリストによって、世界と人間について知る力と見抜く力を身につけていたからでしょう。そして何が本当に重要かを見分けることが出来たからでしょう。

           (完)

                                     2009年1月25日

                                      板橋大山教会   上垣 勝


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  (今日の写真は、1千年前の面影を残す簡素なホントネー修道院はこころ休まる所。)