内なる人が強められる。 エフェソ3章14-19節


 (東武東上線で池袋から約1時間。武蔵野霊園に教会墓地があります。5月の日本晴れの日曜日、20人ほどが集まって既に召された15人ほどの人たちを偲んで、墓前礼拝しました。これはその日にお話したメッセージです。)

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 今年は久し振りの方々も交えて墓前礼拝をすることができました。墓前礼拝というのは、神に向かって生きた人、永遠に向かって地上を旅した人たちを慕いながら、私たちも神の永遠性を仰ぐ素晴らしいひと時です。地上のはかなさの中で、永遠をかいま見るのは日常生活においても大変大事なことです。

 今日の聖書に「内なる人を強めて」という言葉があります。「内なる人」というのですから、私たちの気力や精神力なども含むのでしょう。それが強められるというのですが、むろん頑固と強情になるというのとは違って、柔軟さをもって対応するのですが、根本的なもの、本質的なものについて意思的にしっかりと守って行く心(しん)の強さです。著者は、神が力をもってエフェソの人たちの内なる人を強めて下さるように祈っているのです。

 というのは、エフェソには、人の気力をそぐ色々な力が満ちていました。国家(ローマ帝国)の強権的なものもこの属国の上に威圧的にのしかかっていましたし、享楽的なものもありました。また、アルテミス神殿の偶像崇拝的な宗教の力も町にあふれていました。現在のトルコの西海岸に面するこの小アジアの大都会には、誘惑的な罪の力も満ちあふれていました。それらのあるものは今の東京をも想像させるものです。
 そこで、著者パウロは、あなたがたのために、御父の前に「ひざまずいて祈る」というのです。自分が変えられるということも大変ですが、人が変えられるということは、これはなかなか困難なことです。それは「聖なる出来事」だとさえ言えるかも知れません。そういう厳かな事は、永遠の神の前にひざまずく祈りなしにはなされない、とパウロは本当に思っていたのでしょう。そうした厳粛な事柄をもなして下さる神を、彼は畏れ敬って、「あなたがたのためにひざまずいて祈った」のでしょう。
 そこで、父なる神がその聖なる霊により、、力をもって、あなたがたの内なる人を強めて下さるように、また、「信仰によって、心の内にキリストを住まわせ、愛に根ざし、愛にしっかり立つものとして下さるように」と、彼は祈るのです。
 アルタミス神殿のご神体は奇妙な形をしています。沢山の乳房で体が覆われています。多産の神、豊穣の神、ご利益の神、大都会ですから商売繁盛の神でもありました。ご利益宗教というのは、つまるところ自分が得をし、損をしない生活を目指させるものです。エゴイズムであり、欲の追求です。その町にうごめくあらゆるものが、権力志向であり、欲望のあくなき追求でした。
 それらは、 「愛に根ざし、愛にしっかりと立つものとして下さるように」といった、聖なるものを願う心とは反対のものです。
 しかし、もし社会全体がそういう風潮の中にあるときには、それに一人で対抗しようとしても中々出来ません。今日でもそうではないでしょうか。自分もそれに流され、その風潮に染まりそうになります。皆から浮き上がらないために、自分もそのように装いそうになるのが私たちです。そのために、今日絶望感にとらわれている人たちも、青年たちの中に少なくないのです。
 だからこそ、パウロは、「御父が、力をもって、あなたがたの内なる人を強めて下さるように。また、心の内にキリストを住まわせて下さるように」、と祈るのです。

 心の内に住んでくださるキリストは、復活のキリストです。闇の力に打ち勝ち、死の力に勝利して復活されたキリストです。キリストの前には、死でさえ最後究極的な力ではありません。それはどんなに強くても、究極の一歩手前の力に過ぎません。「体を殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい」と、イエスがおっしゃった通りです。(マタイ10章)。人間は、欲の追求の風潮の中にあっても、そこまでキリストによって強くされるものです。いかなる力も復活のキリストに抗することはできません。(ローマ書8章参照)
 そういうキリストが、私たちの心の中に住みついて下さるなら、生まれつきはどんなに小心で弱虫な人も、主の偉大な力によって内なる人は強められ、多少のことでは吹き飛ばされない人になります。

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 彼は、更に次のように祈りました。
 「あなたがたが、全ての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれ程であるかを理解し、人の知識をはるかに越える、この愛を知るようになり、遂には、神の満ちあふれる豊かさの全てのあずかり、それによって満たされるように。」
 内なる人が強められるとは、私たちの愛が強められることです。愛の気力、愛の精神力が強化されることです。私たちには未解決の問題が多くありますが、その中でも特に未解決なのは、「赦せない」という感情です。遺産相続の中で親戚同士がそういう関係に入ってしまった人もあります。顔を見るのもいやだ、虫ずが走るという人を持っている人たちも多くあります。そのままだと、「赦せない」心を持ちながら死ぬことになるのでしょうか。無念な思いをもって。それは誠に残念な最後です。「終わりよければすべて良し」でなく、「終わり悪ければ.....」。
 キリストはこの根本問題を解決する、人が最も知りたい、秘められた道を私たちに教えてくださるのです。

 キリストを信じる者は、その愛を強められるために、「キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれ程であるか」を、もっともっと知ろうとします。それが根本問題を解決する「鍵」になるからです。そして、彼らは、「神の満ちあふれる豊かさの全てのあずかり、それによって満たされるように」と願って、限りなく前進するのです。
 自己満足やエゴイズムのためではありません。キリストの愛の豊かさにあずかって、私たちも隣人を愛し、赦し、平和を創り出したいからです。

 モーセの偉大さは、エジプトで過酷な強制労働に苦しむイスラエルの民衆の問題を、わがこととして担ったところにあります。民衆の苦しみを、わが責任と考えたのです。それで、彼は責任的に問題を担って行くわけですが、詩編を見ると、そんなモーセにもかかわらず、その後イスラエルが数々の罪を犯して主の怒りを買ってしまい、危機に直面します。ところが、その時彼は、「その破れ口に立って」、主をなだめたとあります。
 破れ口に立つ人。今日そうした人が求められています。自ら、破れ口に立ち、矢面に立って危難を乗り越える人です。

 そして実際、この世には、分裂を癒そうとしてあらゆる困難に耐え、忍びつつ和解の業を黙々と続けている人たちがいます。その人たちの直面している厚い壁は容易に崩れることがありません。それでも、なお希望をもって進んでいくのです。テゼのBr.ロジェさんが書いています。(テゼの写真を2枚掲載)。そういう人たちの胸には、自分を励ます「唯一の泉」があるからです。彼らはそこから、新しい始まりに必要な勇気を何回も汲み取っているのです。
 キリストが心の内にお住み下さるようにとか、内なる心が強められるようにと祈るのは、キリストこそ私たちを内側から励ます「唯一の泉」になって下さるからです。それは、キリスト者だけではありません。キリストにふれる全ての人たちは、この泉から新しい始まりに必要な勇気を、何度も汲み取ることができるのです。
 
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 ヘンリー・ナウエンという有名な心理学者がいます。彼はハーバード大学の教授でした。しかしそれを捨て、カナダのデイブレークのラルシュで知恵遅れの人たちと一緒に生き始めました。カトリックの司祭でもありましたが、教派を越えたエキュメニカルな方でした。それで日本では、プロテスタントの出版社(日本基督教団出版局)から最初の翻訳(「傷ついた癒し人」)が出されました。これは今日、牧師を志す人の必修的な基本図書になっています。
 彼は、一年間の休暇、サバティカルを与えられて、カナダや北米、故国のオランダやドイツその他の知人宅に1週間とか1ヶ月とかお世話になって、充実した休暇を楽しみました。そしてそれらの日々を日記に綴りました。そして、一年の休暇の最後の日を美しい締めくくり、元気に元の古巣にたどり着き、「帰って来て良かった」と満足してペンを下ろしました。
 ところが、その3週間後に65歳で急逝したのです。彼は多くの素晴らしい本を書きましたので、世界の多くの人たちは悲しみました。
 私たちは、いのちの始まりも分かりませんが、今日墓前に立つ私たちは、いつ、どこで、どういう形で亡くなるのか、命の終りも分かりません。私たちは、一日一日を、恐れずに大切に生きねばならないと思います。
 ヘンリー・ナウエンさんの日記が、その後本になり、出版されました。推敲もされず出版されましたので、その分彼の素顔、また人の素顔が知りえて味わい深いものです。その素晴らしいある日の日記に、
 「このつかの間の世の中を嘆くのをやめよう。はかないものの中に輝く永遠だけを見て生きよう。私は、永遠が見える空間、永遠があがめられる場所をつくりたい。」
と、書いています。
 若くして、自らハーバード大学教授の座を捨て、知恵遅れの人たちと共に住み、知恵遅れの人たちの中に、世の小さい者たちの中に、「輝く永遠」を見つつ生きたのがヘンリー・ナウエンさんでした。知恵遅れの人たちの中に隠されている永遠.....。神様が彼らの中にも置かれた永遠。小さい者たちの中にある永遠です。それをかいま見つつ本を書いた。それが世界の人々の心を打ち続けたのです。デイブレークは、彼を通し、永遠がかいま見える場所になったのです。

 ここには職業を持っておられる方々もあります。主婦業に専念してこられた方や、定年を迎えている方、また暫くの育児休暇を終えて会社生活に戻る方もあり、子どももいますが80歳を越えた方もありますます。
 私たちは人生を通して、何を見つめて生きているのでしょう。どういう空間をつくり、どういう場所をつくろうとしているのでしょう。たとえ永遠に残るものをつくれなくても、永遠なる方をあがめ、その方を見上げつつ生きることはできるでしょう。そして、愛のある空間をつくろうと祈り、努力することは誰にもできます。完全にできなくても、その歩みの方向性が大事です。
 今日、墓前礼拝で私たちが向かっているのは永遠なる方です。そして、日曜日毎に私たちが板橋大山教会に集まるのは、この方を仰ぎ見つつ地上を旅人として生きるためです。「内なる人」、その愛が私たちの内に「強められる」ことを祈りつつ、今週も隣人たちと生きましょう。    (2007年5月13日)
                             板橋大山教会 上垣 勝 
教会のホームページはこちら http://www.geocities.jp/itabashioyama_ch/